報奨で失われる責任感と生じる利益追求
何かをする動機があったとして、別の動機を与えれば、合わせて2つの動機でさらにいいように思えるもの。ところが理由が2つあると、互いがサポートになるよりもむしろ矛盾して、行動が難しくなるという。シュワルツ氏が紹介したこんな実験がある。
スイスで核廃棄物を処理しようとした。心理学者が街頭で世論調査をして「自分の住む地域で」「核廃棄物を引き受けてもよいか?」と尋ねると、50%の人がイエスと解答した。危険なことも所有地の価値が下がることも承知。その上でどこかで処理する必要があり、国民の義務だと考えたからだ。
今度は質問を変えて他の人たちに聞いた。それは「“毎年6週間分の給与を払うので”自分の地域で」「核廃棄物を処理してもいいか」というものだ。これで「国民の責任」と「お金」の2つの理由ができた。だが、イエスと答えた人は25%だけだったという。
なぜだろうか。それは、報奨を与えると言った途端に「自分の責任は何か?」を問うのではなく、「どんな利益を得られるか」と考えてしまうからだ。報奨があることで、仕事そのものへのやる気が薄れて、倫理が失われてしまうのだ。
シュワルツ氏はオバマ大統領の言葉を借りて「利益を生み出すか否かだけでなく」「正しいかどうか判断しなければならない」と話している。絶え間なく与えられる報奨という誘惑のために、利益にばかり目が行って倫理観が薄れ、知らないうちに自ら考える実践的な知恵を失ってしまうという。
どのコミュニティでも、仕事でも、それぞれに日々違った状況で、異なる人たちが活動をしている。すべてが書かれた通り、条件の通りには進んでくれないことは、誰もがご存知の通り。だからこそときには一歩引いて、何かに縛られることで自分の思考が奪われていないかを見なおし、実践的な知恵につなげたい。それこそが使える生きた思考だ。状況に対応していくことに、公式などないのだから。
[脚注・参考資料]
Barry Schwartz, Using our practical wisdom, TED2009