安倍晋三、中曽根康弘、石破茂……。日本の命運を握る権力者たちが坐禅に通うことで知られている臨済宗・全生庵。七代目住職が禅の教えから、運とどう向き合うべきかを語る。

会社のために一所懸命働いているのにまるで出世をしない人もいれば、周囲から「あんな奴」と思われている人間が、常務になり専務になり、社長にまでなってしまうことさえある。サラリーマンの世界には、こうした不条理がたくさんあるらしい。

そんな不条理に直面したとき、多くのサラリーマンは「運」という言葉を使うのではないか。曰く、「あいつが専務になれたのは実力じゃない、運がよかっただけだ」。

こうして運という言葉を使うとき、われわれは無意識のうちに、自分の外側に原因を求めている。失敗したときだけでなく成功をしたときも、「今回は幸運が重なって」というように、自分以外のものに成功の理由を見出そうとする人が多い。

だが、禅宗にも仏教にも運という概念はないのだ。すべての結果を運のせいにしてしまうと、人間は考え直すということをしなくなる。そうした愚を避けるには、まずは、結果を真正面から受け止めることが必要である。成功も失敗も運のせいなどにするのではなく、自分の行いによって生じたものであると引き受けて、その結果をしっかりと受け止めるのである。

全生庵七世住職 平井正修氏

そして、これが肝心なことなのだが、その結果に至るまでの努力や苦労といったものを、ぱっと手放してしまう。

「あんなに頑張ったのに」とか「あれほど辛いことに耐えたのに」といった思いから離れるのだ。

そうした思いに強く囚われているからこそ、運のせいにしたり、他者のせいにしたくなるのであって、自分の努力や苦労に執着している限り、新しい一手は絶対に浮かんでこない。執着を手放すことができれば、失敗を糧にすることができる。囚われの心がなくなれば、右にも左にも、思った方向に自在に進んでいくことができるのである。

執着を手放すということは、別の言い方をすれば、こだわるのをやめるということである。

当山の先代の住職(私の父)の師であり、昭和の傑僧と謳われた山本玄峰老師は、「人事を尽くして天命を待つのではない。人事を尽くして天命に従うのだ」とよくおっしゃっていたそうである。ある出来事を運がよかった、運が悪かったなどと言うのは、いまこの瞬間にそう思っているだけであって、その出来事が1年後あるいは10年後にどのような影響を与えるかなどということは、到底、人間には知りえないことである。だからこそ精一杯の、最善の努力をしたら、後は人智を超えた大いなる力にお任せするしかないのだ。

果報を期待して「待つ」のではなく、たとえどのような結果がもたらされようとも、それに「従う」のだ。

こだわりを捨てるということは、こうした覚悟を持つことにほかならないのである。