人間の本質にかかわる「信頼」について、世界の宗教はどのように扱ってきたのだろうか。宗教家への取材から、その意外な解釈が見えてきた。
臨済宗住職 平井正修氏●臨済宗国泰寺派全生庵第七世住職。1967年、東京都生まれ。学習院大学法学部卒業後、静岡県三島市龍沢寺専門道場にて修行。2002年から現職。安倍晋三首相、中曽根康弘元首相もこの寺で禅を組んだ。

2013年の流行語のひとつに、「お・も・て・な・し」があった。

おもてなしとは本来、極めて禅的な言葉なのだが、IOC総会で2020年のオリンピック開催都市として「TOKYO」の名前が読み上げられた瞬間、おもてなしとはかけ離れた光景が繰り広げられたことは、返す返すも残念であった。

もてなすとは、禅的にいえば無私と同じことである。私を無にして、一切合財を相手の立場に立って考え、相手の立場に立って行動する。もてなすとはいわば、私を捨て去る行なのである。

もしもおもてなしの国だと言うのなら、まずは招致レースを競い合ったマドリッドとイスタンブールの人々の気持ちに思いを馳せるべきであった。両都市の招致委員の元に駆け寄って、その健闘を称え、労をねぎらうべきであった。東京での開催決定にガッツポーズを取り、抱き合って喜びを爆発させる招致委員たちの姿は、どこからどう見ても、私心の塊としか言いようのないものであった。

禅の修行を積むと人並み外れた集中力や忍耐力といった、特別な能力が身につくと考える人が多いようだ。しかし、おもてなしがそうであるように、禅の修行とは、むしろ逆で、捨てるために行うものなのだ。私の修行した道場では大寒の時期に1年のうちで最も厳しい座禅の修行を行っており、この間は、修行僧を1週間横にさせない。こうした厳しい修行を行うと、皮肉なことに、何人かの僧が決まって勘違いを起こす。「私はあれだけの厳しさに耐えたのだから、心が鍛えられたはずだ」と。

しかし、オリンピックで金メダルを取るような厳しい訓練を積んだ人が崇高な心の持ち主だとは限らないように、人間はいくら辛い修行に耐えたところで、それだけでは心を鍛えることなどできない。