人間もまったく同じことだ。たとえば、「よい子」と言われる子供がいる。食事の仕方も綺麗だし、人が集まる場所では静かにしているし、駄々をこねることもない。だから大人たちは、その子供のことを「よい子だ」と言う。
だが、なぜ大人たちがその子をよい子だと言うのかをよくよく考えてみれば、それは大人にとって、他の子供より都合がいいからにすぎない。都合がいいことを「よい」と価値づけし、その子を「よい子」だと位置づけしているのである。この位置づけもまた、その子の本当の価値とは無関係である。
自分の本当の価値とは、決して相対的な比較や周囲からの評価で生じるものではない。意識の大転換によって自らに由って立つ生き方を会得したとき、すなわち、真に自由な人間となったときに、自ずと悟れるものなのである。
このように考えてくると、いかにすれば人から信頼を得られるようになるかは、自ずと明らかになるだろう。
「人の信頼を得たい」などと願うことは、禅的に言えば、すでに心が囚われた状態、不自由な状態なのである。人からこう思われたいと願い、そう思われるように振る舞うことは、自らに由って生きているのではなく、他者の評価に由って生きようとしていることにほかならない。