「幸せに生きていくための魔法の言葉、それが数学」と聞いたら、学校で数学に悩まされた経験を持つ多くの読者は驚くだろう。何を隠そう、大学時代に数学で零点を頂戴した評者自身、高等数学から限りなく離れる人生を送ってきた。しかし、著者が高校生の娘へ数学の面白さについて語り始めた途端、「あの数学」に対する評価はガラリと変化した。

本書は人類が3000年もかけて築き上げた数学の世界を、生活にも身近な確率から純粋数学まで9つの話題で解説する。空想の数「虚数」について語られる第8話では人生の決断が指南される。

「16世紀の数学者たちには、どうがんばっても解の公式から虚数を取り除くことはできなかった。(中略)その後数世紀の間に、この空想の数は数学のさまざまな問題で活躍するようになってきた。それと並行して、数学者の間では、数の概念を拡張することへの抵抗が薄れてきた」(194ページ)。数学者たちが虚数を受け入れてゆく様は、まるで人生の大切な場面で扉を押し開く時のようだ。日常からほど遠い数学の話なのに不思議と勇気が湧いてくる。

先日、中高生向けの講演会で「どうしたら数学が好きになるでしょうか」という質問を受けた。評者は迷わず本書を紹介したのだが、「小学生で習うときは『算数』、中学からは『数学』というように数学は『数』と関係が深い。しかし、考えてみると、数というのはふしぎなものだ」(32ページ)と、本書は数が持つ意味を「基本原理に立ち戻って」(第2話)、実に分かりやすく説明してくれる。

著者の力量は、世界に冠たる物理学者・数学者としての専門力だけでなく、長年かけて身につけた「教養」の深さにあるのではないかと思う。「欧米の教育には『リベラル・アーツ』という伝統がある。これは古代ギリシアやローマの時代に始まったもので、リベラルとは本来自由、つまり奴隷ではないという意味だ。つまり、リベラル・アーツとは、自らの意思で運命を切り開いていくことが許される自由人の教養のことだ」(4ページ)と説く。ここまで深く考える科学者は世界広しと言えども滅多にいないことを、「科学の伝道師」を標榜する評者も断言したい。

ちなみに、32歳で名門カリフォルニア大学の物理学教授となった著者は、16年後に数学教授を併任するよう要請される。文系読者にはピンとこないかもしれないが、これは本当に凄いことで「数学の使い手」として超一流と証明されたのだ。本書にはこうした「使い手の立場」から見た数学が縦横無尽に語られ、「数学が人生を明るくする」事例の数々に感動するに違いない。今まで縁遠かったけれど数学をちょっぴり使ってみたいと思う読者に、ぜひ薦めたい好著である。

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