「こちらを見ないでください!」

子宮口が大きく開いてきた午前11時前。

いよいよ分娩室へ。ぼーっとした意識のなか、いきみの練習を始める。こんな大事な時なのに陣痛でエネルギーを使い果たしたためか眠い眠い。菜々子先生に「張ってないときは寝ててもいいですか?」と聞くと「どうぞ。ママがリラックスしているほうがいいので」と許可してくれたので、2~3分おきに来る陣痛の合間に細切れ睡眠を繰り返す。

お腹が張ってきたらすかさず「スー」「フー」と深呼吸。「フー」の時におへそのあたりを見ながら全身、特に下半身に力を入れるわけだが、そのはずみに排便しないかが気がかりだった。菜々子先生によると、実際ココで排便する人がまれにいるというので、気を抜けない。ライターとしてこれまで人に言えないような恥ずかしい取材をしてきたが、菜々子先生らが見守る今日この場で、その「失敗」だけはしたくない。死んでもしたくない。大きいほうは絶対ダメだ。

そうして時刻はお昼過ぎに。夫は菜々子先生に勧められ、昼食のために退室した。なんと、その間にお産が進み、夫が到着したのは分娩がまさに始まろうとしているところだった。

 大盛りの牛丼(つゆだく)を食べてきたという夫がドアを開くやいなや、女性院長は叫んだ。

「こちらを見ないでください! 壁を向いて歩いてください!」

私は分娩台に寝そべり、入り口のほうにパカーっと足を開いていた。だから股間が夫の視界に入りそうになったのだが、院長がそれを間一髪で防いだ。よく見えなかったが、そばにいた菜々子先生も夫が入室した瞬間、体を挺して、私の股間をブロックしていた。女性院長に菜々子先生。女が、私の股間を男に見せまいと必死の努力をしてくれたのだ。よくわからないけれど、感動して涙が出そうになった。

この産院は患者への配慮が大変行き届いており、その後もスタッフのフォローに救われることになる。それはつまり、夫が失態続きだったことを意味する。

「壁を向いて歩け」と恫喝された夫はスパイダーマンのように静かに横歩きしたあとは、状況を静かに見守り「空気の読める男」になったかと思いきや、さにあらず。ついに分娩が始まるという時、おもむろに夫はこの日のために家電店を3軒もはしごして買った最新型のビデオカメラを取り出した。菜々子先生がそれを見逃すはずはない。

「ビデオは産まれるまでは禁止です!」

しかし、なおも私の足元をうろちょろして、何かを目撃しようと画策している夫に再び!

「(妊婦の)足元のほうには来ないでください!」

さらには、出産した直後、赤ちゃんが私のおっぱいに口元を当てている様をビデオ撮影する夫に対しては、明らかに異常者を見る目で夫を睨み付け、「そこも撮るんですか……?」。 

聞けば、夫は乳首と赤ちゃんの口にじわじわズームしながら録画していたのだが、菜々子先生の一言にはっと我に返り、停止ボタンを押した。

私もこのときうっかりしていたが、なぜ夫に撮影させていたのか。できれば、シミだらけのすっぴん顔や、着衣状態とはいえ分娩台で開脚している姿も撮らないでほしかった。

夫は病院でずっと浮き足だっていた。もしかしたら仕事でも「ここ一番」にはからっきし弱く、実力を発揮できないタイプなのかもしれない。心も体もへとへとの出産直後、私はほんの一瞬、そんなネガティブな心境になった。

ちなみに、赤ちゃんは、3度目のいきみでスポッ! と出てきた。「え、もう産まれたんですか?」。まさかこんなに早く出てくるとは思わず、拍子抜けするほどだった。ボー然とする私の横で、夫はすかさずビデオを回し、赤ちゃんに「産まれてきてくれてありがとう」と声をかけていた。お約束通りのリアクションだった。この男、平凡すぎる。