無防備な自分に帰れる時間と場所
東日本大震災以降、それまで接したことのないマスメディアから、心の持ち方について聞かれる機会が増えました。あの限界状況を目の当たりにして、生きることにとって大事なのは何か、仕事とは何か、などと物事のプライオリティ(優先順位)の組み替えを迫られた人が多いと思います。
震災の影響だけではありません。今後は高度経済成長も望めず、低成長時代を生きるという覚悟を決めるべきではないか、そのためには新しい指針が必要ではないか、と誰もがぼんやり思っています。“今日より明日”の進歩に価値をおくのではなく、“昨日と同じ今日が過ごせれば幸せ”と、アクティブでない現状維持の状態をみんなで協力しながらつくっていこう、という感性を、特に若い人が持ち始めている気がします。
そのための指針として、宗教や占い、スピリチュアルなものに目を向けるのは十分理解できます。
宗教は、社会とは別の価値体系を持っています。社会的にはネガティブなものを、宗教が高く評価することがあります。
例えば、今の日本社会のように、自己決定が行動原理となる社会では、自分というものを強く持ち、自我を主張しなければ生きていけません。これはかなりきついですよね。しかし伝統宗教では、「自分というものが強ければ強いほど、苦しみは強くなる」などと言う。「今泣いている者こそ幸せだ」「貧しき者こそ幸いである」というイエスの逆説的な言葉も同様で、こうした別の価値観を持つことが、救いになるんです。
仏教、キリスト教、イスラム教、儒教など長い年月を生き抜いてきた伝統宗教は、いずれも苦悩の人生を生き抜くための智慧の結晶であり、苦しみを引き受けざるをえない智慧の体系でもあります。放っておくと肥大化しがちな自我というものが今、どこに立ち、どちらを向いてどういう状態にあるのかを点検する術を、伝統宗教はたくさん持っているんです。占いやスピリチュアルなものも悪くないのですが、簡単に手に入るものは簡単に折れてしまうと思います。