チームには伏せていた上司の「通告」

こうしてエンジンの配置が決まり、チームは実証機の初飛行にこぎつける。だが藤野氏は、ある事実を胸にしまっていた。初飛行の前、上司から内々に言い渡されていたのだ。事業化はしない。実証飛行を終えたら計画はそこで打ち切りだ、と。

チームはライト兄弟の初飛行から100年の節目に先立つ2003年12月3日を、飛行成功の目標日とした。前夜、技術者が機体にソフトウエアを読み込ませている最中に操作を誤る。作業は数時間分やり直しとなり、終わったのは深夜0時だった。

朝になると格納庫の前に社員が並んだが、藤野氏の姿はない。滑走路の見えない管制室で、無線に耳を澄まし、データを目で追っていた。

機体はシミュレーションをほぼなぞるように飛び、無事に着陸する。気象局の屋上で見守っていた人々は跳びはね、屋根が抜けるのではと心配されるほどだったという。技術者のマヒコ氏は、「あれほどの感動は前にも後にもない」とビジネス・ジェット・トラベラー誌に語る。

胴上げが始まり、藤野氏まで宙を舞った。機体に未来はないと知っていた藤野氏にとって、成功の瞬間でさえ胸中は複雑だったと、同誌に明かしている。

それでも休暇先のバハマで、思いがけない出会いが待っていた。自家用ジェットで来ていた男性が、ホンダジェットが欲しいという。「売ると決めたら、真っ先に知らせてほしい。約束だ」。

諦めてはいけない。藤野氏はそう思い直した。

2005年のオシュコシュ航空ショーにてデモ飛行中のホンダジェット
2005年のオシュコシュ航空ショーにてデモ飛行中のホンダジェット(写真=Sergey Ryabtsev/GFDL-1.2/Wikimedia Commons)

見本市の会期中だけで受注が100機超え

初飛行に成功しても、事業化には社内で慎重な意見が根強かった。ホンダのように異業種から航空機事業に参入した前例はなかったからだ。

藤野氏は、毎年50万人が訪れる米ウィスコンシン州オシュコシュの航空ショーに最後の望みを託し、出展させてほしいと懇願した。2005年7月28日、その会場に青と白の機体が降り立つ。たちまち数千人が機体を取り囲み、見たことのない美しさだと口々に絶賛した。フォーブス・インディアによれば、5万ドル(約790万円)の手付金を預けていった人までいたという。社内の空気は変わり始めた。

そして、事業化の是非が諮られた2006年3月の社内協議の場。時の社長、福井威夫氏は数分間黙り込んだ。やがて自分に言い聞かせるように口を開く。「ホンダはモビリティの会社だ。ホンダジェットで未来を追求すべきだ」。藤野氏は一瞬、耳を疑ったと同誌に語っている。

同年10月、ホンダは業界見本市で初めて注文を受け付け、3日間の会期で受注が100機を超えた。ビジネス・ジェット・トラベラー誌によると、その会場で藤野氏は背後から声をかけられた。「約束を覚えていますか」。バハマで出会ったあの男性が、注文に来たのだった。

もっとも、米連邦航空局(FAA)の型式証明を取得するまでの道のりは長かった。型式証明とは、機体の設計の安全性を製造国の当局が認める証明をいう。当初は2009年か10年を見込んでいた取得は、エンジンの認証の遅れなどでずれ込んだ。

ホンダによると、FAAに提出した書類は240万ページに及ぶ。型式証明を得たのは2015年12月。藤野氏が渡米して航空機の研究を始めた1986年から、29年がたっていた。