秀吉が仕掛けた残酷な罠

そんな折、佐々成政があらたに配置された肥後で、隈部親永ら国衆が主導する一揆が勃発した。成政が改革を急いで検地を行ったからだと説明されるが、そもそも一揆は秀吉の九州征伐への抵抗だと捉えることもできる。

いずれにせよ、成政は一揆を鎮圧できず、豊臣政権による九州支配への抵抗は、豊前(福岡県東部と大分県北部)や肥前(佐賀県と長崎県の本土部分)などに拡大していった。秀吉は秀長や秀次を派遣することまで通告し(実際には派遣されなかった)、龍造寺政家や小早川隆景ら諸大名に命じて、ようやく鎮圧した。

だが、この時点で一揆の火元となった肥後の領主、佐々成政の命運は尽きた。結局、翌天正16年(1588)閏5月、一揆の責任を負わされて切腹した。かつてのライバル、前田利家が加賀100万石の祖になったのとは、正反対の運命であった。

むろん、成政には気の毒な面があった。縁もゆかりもない肥後で、国衆たちはすでに秀吉への不満をかかえており、成政がそれを抑えるのは容易ではなかった。しかも一揆の規模が大きかった。

いや、秀吉はおそらく肥後の国衆たちの不満を見越し、だから自分に歯向かってばかりだった成政を肥後に配置し、国衆たちと一緒に葬るつもりだったのではないか。実際、研究者のあいだにもそういう見方はある(佐々瑞雄氏「佐々成政と肥後国衆一揆」富山商工会議所会報など)。そうであれば成政は、秀吉の残酷な罠にかかって散ったことになる。

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