前田利家と拮抗する立場と実力

生年には諸説あるが、天文8年(1539)生まれだとすれば、秀吉より2歳年下になる。尾張(愛知県西部)出身で早くから織田信長に仕え、少なくとも二人以上の兄がいたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いなどで相次いで戦死したため、成政が佐々家の家督を継いだ。

佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)
佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)(写真=seno/PD-Japan/Wikimedia Commons)

勇猛なことで知られ、信長の身辺を警護する馬廻衆の精鋭である10人の「黒母衣衆」の筆頭を務めた(もう10人の「赤母衣衆」の筆頭は前田利家だった)。『信長公記』などによれば、信長の上洛の途における観音寺城の戦い、浅井と朝倉との姉川の戦い、長島一向一揆、武田勝頼との長篠の戦いなど、信長の主立った合戦には軒並み従軍している。

天正3年(1575)、信長は越前(福井県北東部)を制圧すると、柴田勝家を北陸方面の軍司令官に任命。そこに与力(有力武将の指揮下に預けられた武士)としてつけられ、越前12郡のうち2郡を治めたのが、佐々成政、前田利家、不破光治の3人で、勝家と彼らには100年近くも一向一揆による自治が行われていた加賀(石川県南部)の平定が命じられた。

加賀の一向一揆は難敵だったが、天正8年(1580)3月に勝家の軍が制圧。以後、成政は越中(富山県)の富山城(富山市)を拠点とし、越中一国を治めるまでになった。出世の度合いでは途中で秀吉に抜かれているが、この時点で成政は織田家の宿老に次ぐ立場で、立場も実力も前田利家と拮抗していた。

本能寺の変で一変した運命

だが、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が斃され、状況は成政らに不利になった。歴史に「もしも」をいっても仕方ないが、明智光秀が謀反を起こすのがあと1カ月か2カ月遅ければ、違った結果になったかもしれない。柴田勝家が統括する北陸方面軍は越後(新潟県)の上杉景勝と交戦中で、景勝の居城の春日山城(上越市)の攻略まであと一歩だった。上杉家の命運は尽きようとしていたのである。

本能寺本堂
本能寺本堂(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

ところが、信長の死を受けて北陸方面軍は動揺し、上杉軍は活気を取り戻し、そうするあいだに信長の敵討ちは秀吉に先を越されてしまった。とはいっても、清須会議で成政は越中一国を安堵されているから、決定的に不利になったわけではない。

しかし、「親分」の柴田勝家と秀吉の争いが次第に激化すると、勝家の娘婿を養子に迎え入れていた成政は、地理的な理由もあって勝家にくみするほかなかった。結果として天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦いでも勝家と協働する。

ただし、上杉景勝に備えるために富山から動けなかったので、参戦して秀吉の軍勢と直接戦うことは避けられた。ただし、前田利家のように戦中で裏切って秀吉に恩を売ることもできなかった。