有名な信長から寧々への手紙

黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)
黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)

同様に、秀吉の播磨時代における事柄で、順当な理解が可能になることが、もう一つあげられる。それは信長が、寧々に出した朱印書状の存在である。同文書は、信長が、寧々の「悋気りんき」を戒め、秀吉の正妻として泰然とした態度を維持することを諭したものとして、極めて著名な存在である。ところが近年の大名家正妻についての研究を踏まえると、その内容はにわかに理解し難いものとなっていた。夫の別妻や妾については、正妻の承認、あるいは選定によるものと考えられるにもかかわらず、同文書にみえている、悋気を生じること、しかもそれを主人の信長が諭す、という事態が、それと全く整合しないからである。

しかしそれについても、秀吉が信長の命令によって、赤松氏娘「大田」と結婚し、さらに男子が生まれていたことを差し込んでみると、順当な理解が可能になる。その結婚は、主人信長の差配によるものであり、そのため正妻であったものの寧々には全く裁量の余地はなかったとみなされる。

織田信長像(模本)
織田信長像(模本)、原本は安土桃山時代、模写は明治時代。東京国立博物館所蔵 出典:ColBase

信長が別妻を差配、寧々の正妻の座を保証したか

そのため寧々は「悋気」を生じさせることになり、信長はその原因を作ったことをうけて、寧々を戒める書状をわざわざ出したと考えられることになろう。さらには「大田」から嫡男が生まれたことで、寧々の正妻としての立場が揺らぎかねない状況になり、それに対して信長は、あらためて寧々が正妻であることを保証した、ということも想定できるかもしれない。ちなみに同文書で秀吉は「藤吉郎」と称されている。これは天正6年10月以降にあたっている。まさに播磨時代に出されたものであり、時期も整合している。

これらのことから、秀吉が播磨時代に、赤松氏娘と結婚し、長男「太郎」をもうけたという所伝は、かなり確度の高い事柄と認識することができる。そしてそれが事実であれば、これまでさかんに言われていた、秀吉は「種なし」ということも、全くの臆測であったということにもなろう。

検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます

【関連記事】
「墨俣一夜城」は完全な創作だが…武士でもない奉公人の秀吉が7年で信長の側近に大出世できた"本当の手柄"
地方衰退の一番の原因は「人口減少」ではない…山口の超富裕層が「住民税43億円」をまるっと抱えて移住した理由
「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
NHK大河ではとても放送できない…宣教師に「獣より劣ったもの」と書かれた豊臣秀吉のおぞましき性欲
「老衰で天国へ」にあこがれる人は知っておいたほうがいい…6000体解剖した法医学者が解説する"本当の死因"