秀勝の母は秀吉の妻と認められていた

このことは実母と推定される南殿の立場をとらえるうえで大きな問題となる。従来は「側室」ととらえられていたが、この時代にその概念は存在せず、別妻か妾にあたる。いずれにあたるのかは確定できないが、「南殿」という呼称と殿付けで称されていることから、別妻の可能性が高い。「南殿」とは、本屋敷とは別棟の、南側に建てられた屋敷についての呼称であり、大名家の場合、家妻になっていない当主の正妻や、嫡男の正妻についての呼称として多くみられている。そこからもこの南殿は、秀吉の妻として扱われていたととらえられ、その立場は、正妻・寧々の存在を踏まえて、別妻とみなされる。

南殿については、「竹生島奉加帳」に、天正5年11月22日の奉加に、「御城のうは」に続いて「御城の南殿」とみえているのが、史料にみえる最後になっている。

石松丸秀勝が死去した天正4年の時点で、寧々は秀吉正妻として「御内方」と称されていた。秀吉と寧々の結婚は永禄8年と推定されるので、その時には、秀吉の妻妾としてすでに「南殿」が存在し、さらにその子として石松丸秀勝が存在していたことになる。おそらく「南殿」は、当初は妾として存在していたのだろう。秀吉と寧々の結婚後、嫡男の生母として、別妻に位置付けられ、その地位を寧々から承認されるとともに、石松丸秀勝を秀吉の嫡男とすることも寧々から承認された、という状況が推測される。

三法師を抱く秀吉
信長が本能寺の変で死去した後、その嫡孫・三法師を抱く秀吉、『絵本太閤記』より(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

秀吉の別妻「大田」と嫡男「太郎」

秀吉にはこの播磨時代に、別妻の「大田」と、それとの間に生まれた嫡男「太郎」がいたことが推定されるので(拙稿「新事実‼ 播磨時代の秀吉に実子がいた」)、ここでそれについて取り上げておきたい。ただしそのことは、現在のところ当時の史料では確認されない。後世成立の史料から推定されるのだが、かなり確度は高いと考えられる。

典拠となっている史料は、江戸時代岡山池田家家臣・梶田平助の由緒書である(『岡山藩家中諸士家譜五音寄1』182頁・「吉備温故秘録」干城〈『吉備群書集成』〉57頁)。梶田平助の先祖は、その祖父にあたる肥塚大炊介(大炊助)という人物で、播磨赤松家家臣であったことが記されている。

それらの奉公書には、秀吉は、天正5年(1577)の播磨進軍以降、播磨国主・赤松家の娘「大田」を妻に迎え、実子「太郎」を儲けたこと、しかし「太郎」はわずか3歳で死去したこと、が記されている。