秀吉の第二子を産んだのは国主の娘?
当時の赤松家としては、本家の置塩赤松則房と庶家の竜野赤松広英(のち斎村広英)が存在していた。両者は秀吉が播磨に進軍する以前の時期に、すでに織田信長に従属していた。秀吉が播磨に進軍し、同国を統治するにあたって、国主赤松家と婚姻関係を形成することは、極めて蓋然性が高い事態とみなされる。またそのことは、織田家家老の地位が、当時においてすでに、諸国の国持大名とも同等に位置付けられていたことをうかがわせるものとなる。そしてその婚姻は、信長の指示によると考えられる。そのため赤松氏娘は、秀吉の妻の一人として、すなわち正妻・寧々の存在を踏まえるならば、別妻として迎えられたと推定される。
秀吉と「大田」の結婚が、天正5年のことであったとすると、その間に生まれた「太郎」(これは仮名ではなく、単に長男の意味だろう)は、同6年の誕生と推定される。その時の「大田」の年齢を、当時の武家女性の平均的な第一子出産年齢である20歳に当てはめてみると、その生年は永禄2年(1559)頃と推定される。
「大田」が、どちらの赤松家の娘であったのかは明記されていないが、梶田の奉公書には、肥塚は単に「赤松家」の家臣とあり、「大田」も単に「赤松家」の娘とあることからすると、本家の置塩赤松家の出身ととらえるのが妥当と考えられる。その場合は赤松則房の姉、赤松義祐の娘にあたるとみられる。現時点ではそのように想定しておくのが妥当と思われる。
男児「太郎」は3歳で死去した
そして「太郎」が天正6年生まれであったとすると、3歳で死去したというから、天正8年に死去したと推定される。そこで注目されるのは、同年3月から、秀吉の養嗣子として「次秀勝」(織田信長五男)が、わずか13歳で登場していることである。この経緯をみると、「太郎」死去をうけて、秀吉はすぐに信長に於次丸を養嗣子に迎えることを申請し、それを信長も承認し、養子入りとともに元服したという推定が成り立つだろう。さらに幼名於次丸は、早世した「太郎」にならっての命名という見立ても可能かもしれない。このように「太郎」の存在をもとにすると、秀吉が次秀勝を養子に迎える経緯と時期について、順当に理解することができることになる。

