年収1000万円相当の所領をもらう

永禄6年頃か、犬山領侵攻の際に戦功(敵兵の首をあげたのだろう)により、所領100貫文を与えられ、「士大将」になった。ちなみに「太閤記」は、犬山領での活躍を永禄4年以前に置いているが、信長の犬山領侵攻は同6年から開始されるので(横山住雄『織田信長の尾張時代』)、時期は整合しておらず、この点も「明智軍記」の所伝に蓋然性がある。

ただし所領100貫文(年収約1000万円)は、正規兵(すなわち専業兵士)として最低限の所領高なので、「士大将」というのは誇張した表現といわざるをえない。実態は、独自の家臣団を率いる存在になり、信長の馬廻衆に配属された存在であった、と推定される。

秀吉の専業兵士化は、首取りの戦功によっていた。後年、秀吉自身も、「信長公幕下に属し、身を山野に捨て、骨を海岸に砕き、干戈を枕とし夜半に寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはげます」と述べ、戦功をあげていたことを述べる。また安芸毛利家の外交僧・安国寺恵瓊は、「信長の下にても、羽柴々々と申し候て、世上繰り(調略)をも、又弓矢をも手に取り候て、鑓やりをもつき、城をも責め候て存ぜられ候」と、信長家中のなかで武略に長じた存在であったことを述べている。

秀吉が所有した刀「銘・吉房」
秀吉が所有した刀「銘・吉房」(鎌倉時代、福岡一文字吉房作)東京国立博物館所蔵 出典:ColBase

実は武芸に秀で、戦功を挙げた秀吉

秀吉は、現在の小説・ドラマで描かれているような、武芸に劣った存在ではなかった。しっかり戦功をあげられる武略に通じた存在だった。

そして永禄7年1月の信長への年頭挨拶において、広間に着座することができるようになった。これは秀吉が、有力側近家臣に出世したことを示している。

秀吉が初めて歴史史料に出てくるのは…

ここで秀吉の初見史料について紹介しておくことにしよう。秀吉が初めて当時の史料に登場してくるのは、永禄8年(1565)11月2日に、尾張松倉(岐阜県各務原市)の領主・坪内利定に、織田信長による所領の保証および給与を取り次いで、判物はんもつ(花押を据えて出した公文書)を出していることである。

参百貫文 下野

反銭・小物成共に

七拾貫文 十町名

弐拾貫文 宮田

弐百卅弐貫文 所々御台所入りにて

都合六百廿弐貫文

右、御判の表、末代に於いて御知行せらるべく候、

永禄八 木下藤吉郎

十一月二日  秀吉(花押)

坪内喜太郞(利定)殿