ゼロから出世の階段を上っていった
出世の経緯について、「太閤記」と「明智軍記」は概ね同様のことを記していて、元になる史料が共通していたことがうかがわれる。そのなかで「明智軍記」は、それぞれの事柄の年次を明記し、また苗字を称する経緯についても触れている。なかでも注目されるのは、足軽組頭の木下雅楽助との関わりである。同人は、信長の一代記である『信長公記』(角川ソフィア文庫)にも所見される実在の人物である一方、著名な存在ではない。それ故にその所伝は真実味を感じられる。
これらをもとにすると、秀吉が信長の有力側近家臣にまで出世した経緯は、以下のように考えられる。
はじめは奉公人として奉公し、永禄4年8月に清須城塀修理奉行を務めた功により、下級兵士の「足軽」に取り立てられ(給分は寄親から支給される形態だったろう)、信長馬廻衆木下雅楽助の足軽組に配属され、侍身分になったことにともなって苗字を称することになり、出身村名をとって「中村藤吉郎」を称した。
永禄5年5月もしくは同6年秋に、美濃墨俣に在陣した際に、信長馬廻衆福富秀勝の笄が盗まれた事件の盗人を捕縛した功により、所領30貫文を与えられて、信長の直臣に取り立てられ、信長の命令によって、寄親であった木下雅楽助から木下苗字を与えられて、「木下藤吉郎」を称した。おそらくそれにあわせて実名「秀吉」を名乗るようになったのであろう。
「墨俣一夜城」の逸話は完全な創作
これにより秀吉は、信長の直臣になったが、30貫文は独自に軍事行動できる所領高ではないので、信長直臣の誰かに与力として配属される形態であったと推定される。
ちなみに信長は、永禄4年5月の時点で、墨俣砦を確保していることが確認されている(『信長公記』)。同地への在陣について、「太閤記」は同6年秋、「明智軍記」は同5年5月としていて相違している。いずれが妥当かは判明しないが、「太閤記」は時系列が整然としていないので、「明智軍記」の所伝のほうが蓋然性は高いであろうか。なお信長はその後も同砦を確保し続けたと推定されるので、江戸時代後期成立の「絵本太閤記」が記す「墨俣一夜城」の逸話は完全な創作である。


