母が「やり過ぎ」と止めた秀吉の大量処刑
天正17(1589)年2月25日、京を騒然とさせる事件が起きた。何者かが聚楽第の南鉄門に落首を貼り出したのだ。
聚楽第は豊臣秀吉が造営し、前年4月には後陽成天皇の行幸(訪問)を迎えた政庁兼邸宅である。南鉄門はその表門にあたる。
そして、落首とは権力者などを風刺する匿名の詩歌。つまり秀吉の拠点の玄関口に、秀吉を中傷する文言を書き連ねて貼っていたのである。
落首の具体的な文面を伝え残す一次史料はない。しかし、京都所司代を務めていた前田玄以は、この一件を内密に処理しようとした。このことから、秀吉の耳に入れない方が良いと判断するに足る、酷い内容だったと想像できる。
ところが、どういう経緯か、秀吉に伝わってしまった。ここから秀吉は、事件に関係したと思しき者たちを大量に処刑していく。
まず、門の番衆(警護役)17人を対象に次々と処刑が行われたのだが、その方法があまりに残忍極まりないため、秀吉の母・大政所が「やり過ぎ」をいさめようとしたという。
『鹿苑日録』(京・鹿苑院の僧侶たちの日記)にはこうある。
「七人罪人、大政所殿彼仰請、六人者車、其以後磔云人」/(17人のうち)7人の者を大政所が救おうと秀吉に意見したところ、6人は市中引き廻しとされたが、結局は磔にしてしまった。
その後も処刑者は増え続け、3月初旬には計100人以上に達した(『多聞院日記』)。
100人以上が加担したとなれば組織的な事件だが、落首を貼り付けるといった単純な犯行にそれだけの人数が関与したなど、あり得たのだろうか。
鼻を削ぎ、耳を切り、逆さに磔
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の秀吉は、支えてくれた者たちや万民に思いを馳せる天下人というイメージで描かれているが、「落首事件」を見た限り、その人物像は大きく異なっている。殺戮も辞さない姿は圧政者そのものといえまいか。
疑り深く、残虐――秀吉のそうした一面を追ってみよう。
秀吉が下した残忍な刑罰とは、どのようなものだったのか――再び『鹿苑日録』(3月2日条)から抜粋。
「一昨日削鼻、昨日切耳、今日倒磔」/一昨日は鼻を削ぎ、昨日は耳を切り、きょうは逆さ磔(倒磔)にした。
落首を貼り付けるのを見逃した番衆を処したと伝わる刑だ。事実だとしたら、職務怠慢に対するものとしては凄まじすぎて、想像を絶する。
同じ頃、秀吉は本願寺(この頃は大坂の天満にあった)に疑いの目を向けていた。落首に関係した者たちが本願寺に逃げ込んだと踏んだのである。
3月1日、石田三成と増田長盛が本願寺に出向いた。『言経卿記』は記す。
「武士牢人衆之儀付而、殿下ヨリ門跡へ被仰事有」
「牢人衆之儀」――落首に関わった牢人たちが「本願寺にいるよな?」と、疑いをかけ、いるなら素直に差し出せ、と強要したというのである。単に疑念だったのか、何か証拠を握っていたかは知る由もないが、ともかく本願寺は尾藤道休という人物の首級を差し出し、事態を収拾しようとした。
