「運次第」と記された100人の処刑

しかし、首ひとつでは収まらなかった。同2日、今度は道休らの住まいがあった町を焼き討ちにし、町人たちをはじめ、63人を捕縛した。うち3人は自害、60人が六条河原で磔となったという(『多聞院日記』)。こうなると、もはや戦場に近い。

『多聞院日記』には、さらに詳細な記載がある。

・大坂からは他にも50人を捕縛
・本願寺の門徒もいれば諸国を往来する商人もいたが、誰が本当に有罪だったかは不明

……という有様である。そして極めつけは次の一文。

「運次第なり、さてさて不便事なり、アサマシ」

歴史学者の福田千鶴氏は『多聞院日記』の「運次第」という記述について、処罰対象者の選別が「くじ」によって行われた可能性を指摘している。

仮に「くじ」だったとしたら、秀吉は最初から見せしめも含めて「100人以上殺せ」と指示しており、三成や長盛らは実際にはもっと多くを捕まえ、そこから抽選で100人近くを選んだ、ということかもしれないと、筆者は思う。

まさに「浅ましい=見ていられないほど卑劣」だっただろう。

そして、「今後は怪しい牢人は匿わないこと」という起請文を本願寺から提出させ、さらに寺内の検地を実施するなど、徹底的に弾圧した(『言経卿記』)。

落首の火種は茶々の懐妊か

秀吉をここまで激怒させた落首には、いったい何が書かれていたのか。一次史料がないため断言はできないが、事件の直前に茶々が懐妊していたことと関連しているのではないかと推測した説はある。

淀君(茶々)の肖像画
淀君(茶々)の肖像画(画像=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

落首事件が起きたとき、茶々は妊娠7カ月で、天正17年5月27日に子を出産した。秀吉との間にできた第一子・鶴松だ。だが、茶々の子は「秀吉の実子ではない」と、そんな噂が当時流布していたと考えられ、つまり落首には鶴松の出生をめぐる内容が書かれていた可能性があるわけだ。

前出の福田千鶴氏も「茶々の懐妊をめぐってさまざまな憶測がとびかって(中略)多くの人に少なからぬ驚きを与えた」と分析している(『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)

今でこそ長浜城主時代、秀吉と南殿という女性との間に男児が誕生した(のち夭折)という話が知られてはいるものの、当時の人々に周知されていたとは限らない。むしろ秀吉には子ができないというのが、少なくとも当時の社会の共通認識だったのではないだろうか。