「ずる賢い」「恐ろしい」

秀吉が男性不妊症で、鶴松は彼の実子ではないという説には、宣教師のルイス・フロイス著『日本史』の一文が引き合いに出される。

「彼(秀吉)には唯一の息子(鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供を作る体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、と密かに信じていた」

フロイスのこの考えが、口やかましい京の人々にも浸透していたとしたら、落首の文面もおのずとうかがい知れよう。

フロイスは母国に送った報告書などにも、辛辣な秀吉評を述べている。ただし彼の見方には偏りがあり、参考とするには慎重さを要する、と指摘する歴史家もいる。ともあれ一部を抜粋すると……。

「抜け目なく狡猾であった」(日本史)

「その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の地の、京都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、信長が安土山に築いたものを大いにしのぐものにしようとした」(イエズス会日本年報)

フロイスは、秀吉は元主君の信長を蔑ろにし、凌駕しようと必死で、そうした面がずる賢い――と、悪口を述べている。

フロイスの他には、公卿・僧侶らが比較的率直な秀吉評を残している。公卿の記録では、3月1日付けの『言経卿記』が「武士牢人衆」を匿うなと秀吉が告げてきたと前述したが、その後にこうも書いている。

「種々雑説不斜、恐怖了」

「(今後も)さまざまな処分があるという噂があり、とても恐ろしい」――事実上の頂点に君臨している関白が、苛烈な処罰によって人を大量に殺そうしているのが「怖い」と、率直な感想を記している。そして実際に秀吉は、100人以上を処刑した。

『言経卿記』のこの見解は、同時代の多くの人が感じ取っていた本音ではないだろうか。

豊臣兄弟の間に吹き始めた隙間風

秀吉は落首事件3カ月後の5月20日、「金賦かねくばり」を行っている。これは鶴松の誕生を控え諸大名や寺社に祝い金を分配するイベントだが、自分が引き起こした殺戮の悪影響を封じ込むことを狙いとした、秀吉流の演出でもあったようにも思える。

式典は、聚楽第の門前から金・銀を台に積み、装束を着た近臣が列席した者たちに授けるという方法で行った(『維摩会日記并別会方』)。

男児誕生に合わせた豪華で贅沢なセレモニーには違いなく、いかにも秀吉らしいが、このような金満主義の権力者は民の目にどう映っただろう。

この頃、弟の秀長は秀吉から遠ざけられていた。秀長の家臣・吉川平助(または平介)が紀伊(和歌山県)から伐採する木材の代金を着服していたことが発覚し、その責任をとらされて天正17年正月、秀吉への拝謁を許されなかったのである。『多聞院日記』は秀長が「天下の面目」を失ったと記す。

さらに鶴松誕生と同じ年、羽柴秀勝(秀吉の甥/姉・ともの次男)が、領地である丹波亀山(京都府亀岡市)の知行が不足していると訴え出て、「曲事」(けしからんこと)として「勘当」される。そして丹波亀山の城を受け取るよう指示されたのが、秀長だった(『多聞院日記』)。

豊臣兄弟の間には、隙間風が吹き始めていた。

豊臣秀長の肖像画
豊臣秀長の肖像画(写真=奈良県大和郡山市春岳院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)