せんべいを売りながら燃え上がった「闘志」
父を失った家族には、翌日からの食事すら保証されていなかった。この極限状態を切り抜けるため、母ジャヤンティ・デヴィは、自らの唯一の特技であった「パパド(レンズ豆で作る薄焼きせんべい)」を作って売る決意をした。
毎朝黒コショウとクミンを混ぜ込んだ豆の生地をこね、何百枚もの薄い円形のパパドを丁寧に丸め、列車の振動で揺れる家の屋根の上に敷いたプラスチックシートに並べて、ビハールの強烈な太陽の下で乾燥させた。
数論の複雑な難問を解き明かしてきた若き数学者アナンドにとって、目の前には「明日の食事をどう確保するか」という新しい、そして最も過酷な変数が立ちふさがっていた。
午後になると、アナンドは乾燥したパパドを大きなプラスチック袋に詰め、錆びついた古い自転車の荷台にしっかりと縛り付けて、埃と熱気に満ちたパトナの街へと繰り出した。毎日20~30キロもの距離をペダルを漕いで走り、大声で行商をしながら、1枚あたり数パイセ(かつて使われていたインドの補助通貨)の利益を求めて、戸口を一軒一軒叩いた。
ペダルを漕ぐ両脚が乳酸で激しく燃えるように痛む中、彼の脳はフル回転を続けていた。彼はペダルを漕ぐ一定のリズムに合わせ、パパドの需要の価格弾力性を頭の中で計算したり、複雑な積分方程式の展開を暗算で行っていた。彼は、ケンブリッジで学ぶべき知性を持ちながら、家族の命を繋ぐために路上でせんべいを売る青年であった。
この過酷な試練の日々が、アナンドの思想の根底を形成した。貧困とは単にお金がないことではなく、人間の可能性が社会的に、かつシステムとして押し潰されるプロセスであるという現実を、彼は身をもって体験したのである。彼は決意した。自分がケンブリッジへ行って学ぶことができないのならば、このビハールの地に、世界中が驚愕するような最高の教育システムを自らの手で構築してやると。
小遣い稼ぎで始めた小さな数学教室
1992年、まだ父が生きていた頃、アナンドはわずかな小遣いを稼ぐために、小さな学習塾を始めていた。彼はその塾を、憧れの数学者の名前を冠して「ラマヌジャン数学教室(Ramanujan School of Mathematics - RSM)」と名付けた。
彼は月額300ルピー(当時のレートで約1500円)で、パトナ市内のボロボロの小さな部屋を借りた。初日、教室にやってきた生徒はわずか2人だけだった。しかしアナンドは、生徒の数など全く気にしなかった。彼はその2人の少年のために、まるで数学が血の通う生きた言語であるかのように、全身全霊を捧げて講義を行った。彼の驚異的な指導力は、受講した生徒たちの口コミを通じて、またたく間にパトナ中に広がっていった。
1995年までに、ラマヌジャン数学教室の生徒数は500人以上にまで急増した。狭い部屋は大きな講堂に代わったが、そこにはエアコンもなく、簡素な机と黒板があるだけであった。アナンドは、年間わずか数百ルピーという極めて安い授業料しか設定せず、家庭が貧しい生徒からは一切の料金を受け取らなかった。



