70年代に入るとマツダは、エネルギーロスが小さいロータリーの搭載車を主力に据える。日本の低公害優遇税制適用第1号はマツダ「ルーチェAP」であり、「低公害なロータリー車」の人気は高まる。ところが73年秋にオイルショックが発生し、ガソリン価格は高騰してしまう。排ガスは少ないものの燃費が悪かったロータリー車は、たちまち在庫の山となる。75年には赤字に転落。最初の経営危機に陥ったマツダは、「AM(オールマツダ)作戦」を断行する。これは技術や生産、総務など内勤社員を全国の販社に出向させて、営業マンとする作戦だった。広島駅ホームでは、連日のように壮行の儀式が行われた。戦後30年が過ぎた頃、「万歳、万歳」の声に送られ、出向者はあたかも出征する兵士のようであったという。
仕事の役割が明確に決まっている欧米企業では、考えられない。個人よりも会社を最優先する当時の日本企業ならではのやり方だが、この作戦を労組も支持する。現実に給料の遅配なども起きていて、マツダは限りなく危うかった。
AM作戦が3年に及ぶ中で、夜訪などの営業活動により技術者たちもエンドユーザーの生の声を聞く機会を得た。出向から戻った彼らが、若者向けにつくりあげたのが、80年6月発売の「赤いファミリア」だ。月によっては「カローラ」の販売を超え、ライバル社のスターレット、パルサー、シビックなど世の中にあったハッチバック車がみな“赤く”塗りつぶされた。「赤いファミリア」を真似てである。ある種の社会現象だったが、記憶と記録に残る2本目のホームランだった。
その一方、経営危機により創業家の社長は降板し、メーンバンクの旧住友銀行(現在の三井住友銀行)が経営再建に乗り出す。住銀主導により、フォードと資本提携したのは「赤いファミリア」発売前の79年11月だった。
その後は、三菱自工、ホンダとともに“3位集団”を形成していく。ところが、2回目の経営危機はバブル崩壊後に訪れる。80年代後半のバブル期に、国内販売を2チャンネルから5チャンネルに増やして「打倒・トヨタ」を目指した。つまり仕掛けたのである。が、バブル経済が崩壊したことで拡大策は裏目になり、94年3月期には経常赤字に転落。96年にはフォードの持ち株比率は33.4%に引き上げられ、フォードから社長が送り込まれる。
01年には大きなリストラを実行し、再び危機を脱していく。03年からはプロパー社長が登板、前述のようにフォードは離れていった。駆け足で見ても、波乱の歴史である。