「退屈なクルマはつくらない」「値引きしない」で営業利益は前期比3倍。世界で走る車のうち、2%にも満たないマツダ車が輝くためには――。ただそれだけを考え、モノづくりも売り方も刷新した。それは、生き残るための大改革だった。
※第1回はこちら(http://president.jp/articles/-/11935)
反骨のDNAがあったから生き残れた
マツダは、世界で初めてロータリーエンジンを実用化させたことで知られる(最初の搭載は1967年)。なぜ、ロータリーの開発に挑戦したかといえば、当時の松田恒次社長が会社の自主独立を守ろうと決断したためだった。
60年代半ばの通商産業省(現在の経済産業省)には、特定産業振興臨時措置法案に代表されるように、自動車業界をトヨタと日産の2社、あるいは3社に再編しようとする動きがあった。資本の自由化から日本に進出してくるビッグスリーから自動車産業を守ろうとする保護主義的な方向に動いたのだ。ダイハツ工業がトヨタ系、富士重が当時は日産系となり、さらに日産によるプリンス自動車工業の実質的な吸収合併(66年)などは、この流れである。
マツダは国の方針に強く反発。再編されずに生き残るためには技術革新を果たすしかないと、次世代エンジンの開発に懸けたのだ。
12年夏、山内孝現会長(当時は社長)は「怒られるでしょうが、ロータリーは反骨精神の表れです。国から言われたことにそのまま従うのでなく、独自にできることがあると考えるのがマツダのDNA。これがあるから、GMやクライスラーは破たんしても、小さな我々でもやっていける。スカイアクティブにしても、他社がEVやHVに向かう中、敢えて内燃機関にこだわったことで開発できたのです」と語っていた。
スカイアクティブにせよ、「モノ造り革新」にせよ、この会社の原点には自主独立を求める“反骨精神”が横たわっているようだ。世の中の流れはともかく、「わが道を行く」考え方であり、モノづくりへの意思である。状況に合わせて対応するのではなく、発信して自ら状況をつくっていくのが、よくも悪くもマツダなのだろう。
ロータリーエンジンは、マツダの最初の“ホームラン”だ。中学の技術家庭科の教科書にも、日本がつくった次世代エンジンとして写真入りで紹介された(70年代前半、筆者はこの教科書で学んだ)。企業規模はともかく、世界で唯一ロータリーエンジン量産化を実現させたマツダの技術力は、世界最高水準だったはずだ。