超一等地に「ど根性ビル」の謎
日本において、大規模再開発の一角に古めかしい雑居ビルが建つというのは珍しい話ではない。再開発は通常、大手デベロッパーが主導するものだが、1社で進めることはできず、地権者との共同作業となる。バブル期の悪質な地上げのイメージが根強く残っているものの、日本の法律は私有財産権が強く、行政による強制収容は難しい。再開発に同意しない地権者もおり、単独での生き残りを目指すというのもまた自由だ。
ピカピカのビルに挟まれるように存在感を発揮するビルは一部の不動産事業者の間では「ど根性ビル」と呼ばれており、好事家も多い。有名なのは日本橋室町の三井不動産の本社がある一角だ。中央通りに面した角地に骨董店や画廊が入居するビルは再開発に加わらず、今も単独で営業を続けている。真偽のほどは定かではないが、業界内では「三井不の札束攻勢にも頭を縦に振らなかった」という噂もあり、今でも語り草となっている。
それにしても、だ。トフロム八重洲は「東京の国際競争力向上に貢献」するとして、国家戦略特区の認定を受けている。岩井監督の言葉を額面通りに受け止めると、今後100年間、東京駅の目の前の超一等地に質屋の看板が掲げられ続けることにもなりかねない。さすがに主催者も気まずいと感じていたのか、セレモニーに訪れたメディアはメインゲートではなく、横の通りに面した入口から入るように誘導された。
丸の内とは対照的な「八重洲の歴史」
もっとも、メディアとしても、外観を撮影しないわけにはいかない。セレモニー後、テレビ局のカメラマンが大型のビデオカメラを構え、質屋の看板を指差しながら「あれ映さないでいけるか?」「難しいですね」と、アシスタントと二人、頭を抱える光景も見られた。
なぜ、このような事態が起こったのかを紐解くために、時計の針を戻したい。東京駅が開業したのは1914年。近代国家への道を歩み始めた日本政府が丸の内を起点に、首都東京に経済の中心地を作ろうとしたのがきっかけであることは広く知られている。三菱財閥が明治政府から払い下げられた丸の内をオフィス街としてゼロから開発したことは有名だが、当時の八重洲は裏口どころか、改札すら存在していなかった。
日本橋や京橋に近いという土地柄、問屋や小売店といった小規模な事業者が多く立地していた。セレモニーに地権者を代表して登壇した組合の理事長が「幼少の頃はけん玉やメンコ、凧揚げやかくれんぼに熱中していた」と語るように、東京都心といっても、のどかな光景が広がっていたようだ。


