正室ねねの実兄・木下家定の存在

先述の通り、豊臣秀吉は貧しい家の出で、古くからの信頼できる家臣というものを持たなかったため、代わりに肉親を忠実なる家臣としました。しかし、実の兄弟は秀長しかいなかったため、いわゆる「親戚」にまでその範囲を広げています。そのひとりが木下家定です。

木下家定/茂寂紹英像(建仁寺・常光院所蔵)
木下家定/茂寂紹英像(建仁寺・常光院所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家定は、秀吉の正室・ねね(おね。のちの北政所、高台院)の実兄です。秀吉は、まだ身分が低かった頃、ねねと結ばれました。恋愛結婚だと考えられています。

ねねと家定の父は杉原定利という武士で、母も木下という姓を持つ武士の家柄です。一方、秀吉のほうは、諸説あるものの姓(苗字)すらなかった低い身分の家柄だったので、ねねの母は結婚におおいに反対したといわれています。しかし、この後、秀吉が、当初の身分などものともしない大出世を遂げるのは、ご存知の通りです。

秀吉は若い頃は「木下藤吉郎」と名乗っていたとされますが、この「木下」姓は、ねねの母方の姓から来ているのではないかといわれています。

秀吉が心から信頼していた証

秀吉とねねが結婚したのは、永禄4(1561)年頃とされ、秀吉は当時25歳、ねねは14歳頃。家定は19歳です。家定がいつから秀吉に仕えるようになったのかはよくわかっていませんが、「若い頃から仕えていた」とされているので、この頃ではないかと推測されます。

その後、秀吉は天下人の道を突き進んでいきます。特にライバル・柴田勝家を破って織田信長の後継者の地位を固めた天正11(1583)年からは、天下の堅城・大坂城の建設を始めました。その豊臣政権の中枢となる城を秀吉が留守にした際、守る役目を帯びていたのが家定でした。秀吉が「身内」として、家定のことを心から信頼していた証といえるでしょう。

その後、文禄4(1595)年には、2万5000石を与えられて姫路城主にもなっています。この姫路城は、元はのちに秀吉の軍師と呼ばれることになる黒田官兵衛の居城だったものですが、秀吉が中国地方を攻略するに当たって秀吉に譲られたとされます。その後、秀吉の弟・秀長が入っていましたが、秀長が居城を和歌山城に移すに当たり、家定が跡を継ぐこととなったのです。

家定は天下人・秀吉から重要拠点を任され、出世を果たしていったのです。