「腹心の部下」を求めた切実な理由

というのも、裸一貫で信長の家臣となった秀吉には、心から信頼できる部下がひとりもいなかったからです。武将として出世を果たせば果たすほど仕事も増え、統率する部下の数も多くなります。そうなると、腹心の部下がどうしても必要となるため、実の弟である秀長を誘ったのではないか、と考えられるからです。

豊臣秀長(羽柴秀長)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟(奈良県大和郡山市春岳院所蔵品)
豊臣秀長(羽柴秀長)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟(奈良県大和郡山市春岳院所蔵品)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

時には、兄弟同士で血で血を洗う争いなどが行われることもあった戦国時代ですが、心から信頼できる仲間として肉親を頼るということもしばしば行われてきました。豊臣兄弟は、激動の戦国の世を生き抜くために、兄弟の絆を重視した好例だともいえそうです。

一方、戦国の世は実力がものをいう時代です。成功した時の報酬も非常に大きなものがありました。兄の出世を助けることで、秀長もまた、大きな出世を果たしているのです。

秀吉が、近江国(滋賀県)の浅井氏攻略の褒賞として北近江の所領を得て長浜城主となると、秀長も、その貢献を称えられ、同地に領地を得ることに成功しています。

最終的に秀吉が信長の後継者としての地位を固めると、秀長もまた、おおいに出世を果たしました。大和国(奈良県)を中心に100万石ともいわれる領地を有し、従二位

権大納言という官位を得ることになったのです。以来、秀長は「大和大納言」の尊称を得て、人々から崇敬を集めるようになりました。

兄のせいで何度も危険な目に

もちろんよいことばかりではありません。秀長は、武将として何度も危険な目に遭っています。例えば、賤ケ岳の戦いの際には、秀吉が軍勢を率いて別の戦に向かったために、手薄となったところを敵の軍勢に急襲され、命の危険にさらされました。紀伊国(和歌山県)の反対勢力を攻撃した際には、秀長軍が放った火矢が敵の火薬庫に命中し大爆発を起こすという事件も起こりました。常に死と隣り合わせだったといえるでしょう。

「人たらし」といわれる秀吉にいいくるめられて武士の世界に入ったのだとしたら、「(兄のせいで)いろいろ巻き込まれる……」と思っていたかもしれません。

そうした中で、秀長は具体的にどのような活躍をしたのでしょうか? もちろんひとつには兵を率いる武将としての活躍があります。四国征伐の際、秀吉は11万もの大軍を送り込みましたが、出陣時に体調を崩したため、全軍は秀長が率いました。

また、九州征伐の際には、軍を2隊に分け、西から秀吉、東から秀長が攻撃を仕掛けました。この時、秀長が率いた兵数は約10万といわれ、その中には毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家、黒田官兵衛ら歴戦の勇士たちがいました。この大軍勢をまとめあげるには、武将としての卓越した力が必要だったことは間違いありません。秀長は大軍を率いる大将ないし秀吉を支える副将として大活躍したのです。副将となった際には軍師としての役割も果たしていたといわれています。