関ケ原で東軍につかなかったが…
しかし、慶長3(1598)年、秀吉が亡くなると、状況は一変します。徳川家康が天下とりに動き出し、世の武将たちが東西に分かれて対立しました。関ケ原の戦いです。
この時、家定はどうしたのでしょうか? 勢いに優る東軍・家康に味方したのでしょうか、秀吉の遺児・秀頼を奉じる西軍・石田三成方に与したのでしょうか?
実は家定は、この時、「中立」の姿勢を貫きました。どちらにも加わらず妹・ねねを警護する役割に終始したのです。戦後は、豊臣の縁者であるにもかかわらず中立の立場をとったことを家康に評価され、2万5000石を保持したまま備中国(岡山県西部)足守に移されています。
ちなみに、関ケ原の戦いにおいては家定の子どもたちも、どちらに付くかでおおいに煩悶しました。結果、長男・勝俊は東軍に味方したのですが、任務を放棄したとして所領を失っています。次男・利房と四男・俊定は西軍に属したため、戦後所領を没収されました。一方、三男・延俊は東軍として活躍したため、3万石の所領を維持され豊後国(大分県仲南部)日出藩主となります。
幕末まで血脈を保った家系も
最も注目を浴びたのが五男・秀秋です。幼い頃秀吉の養子となり、その後、小早川隆景の養子として家督を継いだ彼は、当初西軍に与していましたが、のちに東軍に寝返って勝利におおいに貢献しました。その褒美として、岡山50万石の大大名の座を射止めたのです。家定が岡山に近い足守の地に転封となったのは、息子である秀秋を援護するためであったともいわれています。
天下人・秀吉に振り回されつつ、大出世を遂げた家定は、秀吉の死後、権力者・家康と豊臣家を奉じた石田三成の争いに親子ともども振り回され、人生が大きく変わりました。その後、家定は8年後の慶長13(1608)年に66歳で天に召されます。戦後所領を没収された長男・勝俊は文芸の道に生き、次男・利房は大坂の陣で活躍したのち父の遺領・足守藩を継ぎました。四男・俊定は弟・秀秋のもと一岡山藩士となります。一方で大出世した五男・秀秋は2年後に21歳で早世してしまいました。
家定の子には、本文で語った以外にも、宗連など複数の男子がいたという説もありますが、残された系図などにより諸説があります。本文で紹介した比較的著名な5人のうち、長男・勝俊、四男・俊定には男子がなく、岡山で50万石を領した五男・秀秋も早世したため男子がなく、これらの家系は絶えたとされています。一方、足守藩を継いだ次男・利房の家系は直系に近い形で幕末以降も存続しました。また、家康に味方して日出藩主となった三男・延俊の家系も兄弟や近い親族間での相続を行いつつ、江戸後期まで血脈を保っています。
検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます



