秀長の葬儀で評された「人柄」

一方、平時には各戦国大名への対応などを積極的にこなしていました。吉川元春・小早川隆景らが秀吉のもとにやってきた時や徳川家康が秀吉に臣従の意を示した際には秀長が接待したという記録が残っています。秀吉を頼ってきた大友宗麟に応対し、九州征伐のお膳立てや戦後処理を担当したのも秀長でした。

そんな秀長のことを、秀長の葬儀で導師を務めた古渓宗陳は「威ありて猛からず、靄然とし仁有り(威厳はあるが獰猛でなく穏やかで思いやりがある)」と評しています。人と人とのつながりを重視し、人間関係を上手に取り扱う素質に恵まれていたのでしょう。

さらに、時に秀吉が暴走しそうになるのを押さえることができる数少ない存在が秀長だったともいわれています。四国征伐の際に遅れて秀吉が参戦しようとしたところ、「そんなことをしたら兄者の御威光も薄れる」という手紙を出して秀吉の渡海を阻止したりもしています。

豊臣一族の「その後」

こうして秀吉政権の中枢としての活躍を期待された秀長でしたが、彼に残された時間はあまりにも短すぎました。秀吉による天下統一を目前にして病に倒れ、天正19(1591)年、兄・秀吉よりも先に52歳で命を落としてしまったのです。領地を治める政治家としても活躍していた秀長の葬儀には、20万人もの人が集まり別れを惜しんだといいます。

一方、秀長の死後、秀吉の暴走を押さえることのできる人間は本当にいなくなってしまったようです。秀長の死の翌年、秀吉は悪名高き朝鮮出兵を実行に移しました。また、秀次事件などの悲惨な事態も起こしています。もし、秀長がもう少し長生きしていたら、このような事態は避けられたかもしれないのです。

豊臣秀吉の子としては、側室・淀殿(茶々)との間に生まれた鶴松(棄)が夭折し、唯一成育した跡継ぎ・秀頼は大坂の陣で自害しました。その子・国松は捕らえられて刑死しており、女児のみ尼となって生き延びました。他に石松丸(秀勝)という子がいたともいわれていますが、少なくとも夭折しています。秀長のほうも唯一の男子・与一郎が夭折しており、女子も本人や配偶者が若くして亡くなったため、家系は断絶したと考えられています。

【図表】豊臣一族のその後
出典=『戦国きょうだいの日本史』(時事通信社)