煩悩に火をつける無駄話はしない
善人や賢者というのは、悪や執着と縁を切り、心がすっかり清浄になった人のこと。その特徴を「よけいなおしゃべりはしないし、楽や苦にも一喜一憂せず泰然自若としている」というのです。
世間には、とにかくおしゃべりが好きな人がいますが、善人賢者は楽しみ(快楽)のためのおしゃべりや無駄話はしないということ。おしゃべりについては、道元禅師のこんな話が『正法眼蔵随聞記(※)』にあります。
「世間の人たちは雑談しているとたいてい“猥談”が始まり、それでいっとき気持ちを解放したりしているが、仏道修行者には固く禁ずべきことだ。ところが近頃の若い僧たちは、ときどき猥談をしている。けしからんことだ」と嘆いたあと、「はげしい悪業はかえって悟りに導くこともあるが、役に立たないおしゃべりは仏道の妨げである。まして猥談などすればよけいな煩悩もわくだろうから重々気をつけるべきだ」と諭しています。
たしかに人とのおしゃべりに刺激され、よからぬ妄想を起こすこともあります。もって戒めとしたいものです。
※道元禅師の折々の話を弟子の懐奘がまとめたもの。
煩悩の火を吹き消すことができれば
粗暴なことばを投げつけられても、ことばで返したりせず、壊れてだれも撞かなくなった鐘のように、じっと沈黙を守っている――。
そんなふうになれば、すでにあなたは涅槃に達しており、もう怒りに心を乱すこともないと、この句は言っています。それは「忍辱行」という修行でもあります。さまざまな侮辱にも耐え忍んで、怨みの心を起こさないという修行です。
ことばに対してことばで反論したり、ことばの応酬をするのは「ことばへの執着」があるということ。“壊れた鐘”は、「そんな執着はすっかり捨てた。自己を不動のものとしたので、罵られても、殴られても、もはや動じない」という境地を示しています。
この鐘は、岩山や深い湖のように超然としてそこにあります。
涅槃(サンスクリット語でニルヴァーナ)のもとの意味は「吹き消すこと」。
煩悩の火をすべて吹き消した安楽の境地には、怒りや貪りの燃えカスすらなく、ことばさえ超越しているということです。せめて私たちも怒りの火を吹き消し、罵り合いやことばの暴力のない世界を目指しましょう。
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