新発見の秀長に宛てた秀吉書状

和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)
和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)

最近、秀長宛の秀吉書状が発見された。内容から天正12年(1584)に比定されている6月18日付の貴重な文書である(『田中本家博物館所蔵文書』)。内容は「昨日17日付の秀長からの書状と一益からの書状を詳しく披見した。一益からの書状は秀長からの書状と同じような内容であった。両通から得られた情勢を踏まえ、こちらからも軍勢を派遣し、黒田、一宮まで放火させたので、そちらからも煙が見えただろう。こちらは軍勢の必要がないため20日には移陣し、21日には日野に着陣する予定なので、秀長もそのように心得るように。秀長は神戸かんべ城(現在の三重県鈴鹿市)へ移ったのか。船の用意は油断なく指示するように、追々連絡する。なお、城の留守居はしっかり指示し、油断しないように」。

秀長は秀吉とは別行動をとっているが、緊密に連絡しており、主体性を持って軍事行動していたことが分かる。6月20日付で堀政次が秀長の家臣に宛てた書状によると、「伊勢方面の戦局は取り立てての変化はないので安心してほしい。秀長様へもお見舞いに参上しようと思っていたが、諸事に紛れて参れず、不本意であった」などと伝えている。戦局が膠着こうちゃく状態となったこともあり、秀吉はいったん大坂城に帰陣した。

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