平清盛も目指した「開かれた国家」

――信長はなぜ天下を統一しようとしたのですか?

「天下布武」というビジョンを掲げたことからも分かる通り、信長には明確な国家像がありました。それは自らの武力を背景にした秩序の回復です。すなわち室町幕府の権威を回復させ、天下泰平の世を築こうとしたのです。

また楽市楽座に象徴されるように、座という商人の特権を取り上げ、誰でも自由に商いができるようにし、さらに関所を撤廃することで人の行き来を盛んにし、経済を活性化させようとしたのです。

その見据える先には、南蛮や明との交易によって国家を富ませ、誰もが豊かな生活を享受できる世がありました。

つまり平清盛と同じような世、すなわち「開かれた国家」を目指していたと考えられます。

信長包囲網に何度も苦しめられる

――天下事業において、信長の人生には何度か危機が訪れていますが、どのような危機があったのでしょうか?

まず元亀元(1570)年の「志賀の陣」ですね。信長と浅井・朝倉連合が比叡山延暦寺を舞台にし、にらみ合ったものです。この時は朝廷と足利義昭を動かして講和に至りましたが、信長は、本願寺・三好三人衆・浅井長政・朝倉義景らに包囲されました。これを第一次包囲網と呼びます。

続いて元亀三(1572)年の第二次包囲網です。この時は足利義昭の呼びかけに応じた諸勢力に信長は包囲されました。とくに武田信玄が上洛戦をしてくる可能性が高かったので、最大の危機と言えました。しかも同年十月、三方ヶ原の戦いで、同盟者の家康が信玄に敗れた時は、信玄が尾張に侵入するのは確実でした。しかしこの時は、信玄の病状が悪化して撤退したので助かりました。

三回目の危機が天正五(1577)年の本願寺・毛利輝元・上杉謙信・宇喜多直家・松永弾正・雑賀衆らによる第三次包囲網の時でした。この時は木津川口の戦いで毛利水軍の前に織田水軍は惨敗を喫し、籠城する本願寺に兵糧を入れられました。また手取川の戦いで、信長の派遣した柴田勝家らが敗れ、謙信の来襲が確実となりました。しかしこれも謙信の急死などにより、乗り切ることができました。

 こうして見ると、信長が守旧勢力からいかに嫌われていたかが分かります。では、天下を制そうとした者が誰でも同じように包囲網を作られて袋叩きに遭ったかというと、それもまた違う気がします。つまり守旧勢力と一切妥協しなかったことが、危機の連続の原因になったと思います。