※本稿は、内田樹『街場の教育論』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
大学で学ぶ「六芸」とは何か
大学教育では、教養教育と専門教育が区別されています。言葉はふつうに流布していますが、改めて「教養教育と専門教育はどう違うのか」と問いを立てると、これに答えるのはなかなかむずかしい。
昔は君子に必要な基本的な学術を「六芸」と言いました。これはヨーロッパもいっしょですね。自由7科という。東洋は6科、西洋は7科。文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽。いわゆる「リベラル・アーツ」(artes liberales)です。
でも、私の見るところではギリシャ・ローマ伝来の自由7科より、孔子の六芸の方が教養教育としてはより理に適っているように思われます。六芸とはすなわち、礼・楽・射・御・書・数のことです。
儒教ですから、当然「礼」が第一に来ます。これは祖霊を祀る儀礼のことです。どうやって正しく死者を弔とむらうか。これが人間が第一に学ぶべきことである。私はこの考え方は深いと思います。
葬礼というのは「正しく祀れば死者は災いをなさない。祀り方を誤ると死者は災いをなす」という信憑の上に基礎づけられています。生きているもののふるまい次第で死者のふるまいが変わるというのは、要するに死者とのコミュニケーションが成立しているということです。「存在しないもの」とも人間はコミュニケーションできる。これを人間が学ぶべきことの筆頭に置いたというのは、人間についての洞察として深いと私は思います。
孔子が音楽を愛したワケ
「楽」は音楽です。なぜ、音楽が第2位に来るのか。これも私は長いこと意味がわかりませんでしたけれど、今は少しわかります。
孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。「楽」は時間意識を涵養するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。楽器の演奏も曲の鑑賞もできない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」がまだ聞こえて、「まだ聞こえない音」がもう聞こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織りなす関係の中でしか把は持じされません。そして、「先行する楽音」も「後続する楽音」も、論理的に言えば、今、ここでは聞こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聞き取ることもできないのです。

