「弓馬の道」からわかる「武術の本質」
武術の本質はこの2点に集約されると言ってよいのです。自分の身体をどこまで精密に意識化できて、どこまで細かくコントロールできるか。それが第一。第二が、他者とのコミュニケーション。非―自己と一体化することによって、パフォーマンスを爆発的に向上させる。これが武術の原理です。
「敵と戦って、倒す」ということは武術の目的ではないのです。武術の原則は「敵をつくらない」ということです。的も馬も、身体運用の精度を上げ、運動能力を飛躍的に高めるための「きっかけ」ではあっても、「敵」ではありません。射は自分自身との、御は馬との、コミュニケーション能力開発のことです。私はそう理解しています。
そして、残ったのが書と数。「読み書きそろばん」です。生身の人間相手の、「浮世の勧工場」でのやりとりのための技術です。
ご覧の通り、現代の教育では六芸のうち、礼、楽、射、御は必須カリキュラムには含まれていません。最下位に置かれた2教科だけが集中的に教えられているのです。
教育課程から外された「四芸」の特徴
さて、現代教育課程から排除された、これら四芸の特徴は何でしょう。私は実はこれこそが教養教育の本体だと思っているのです。
とりあえず、この四芸では、どれも達成目標や成果が数値化できません。「祖霊を祀る仕方のテスト」をして、A君は祖霊が喜んだせいで家運が向上したので100点、B君は崇りで病気になったので0点というようなことは考量できません(だいいち、成績をつけられるまでに時間がかかりすぎます)。
音楽もそうです。音楽のもたらす最大の喜びは「感動」ですけれど、感動は個人的なことですから客観的に数値化できない。バド・パウエルの晩年の演奏はもう指が動かなくなって、ミスタッチだらけだけれど、「バド・パウエルが出したいと思って(出せないで)いる音」が幻想的に聞こえる聴衆は深い感動に震えるということが起こる。このような音楽性もまた数値的には考量不能です。
射もそうです。体を細部まで意識化することは比較したり競争したりすることではない。「股関節の使い方を工夫したら、大腰筋の動きがうまく胸鎖関節に伝わるようになりました」というような自己申告を点数化することは不可能です。
御も同じです。競馬でタイムを計ることはできますけれど、「人馬一体度」は数値化できません。御において求められているのは、自己と非自己のコミュニケーションの深度なのですから。

