史実に沿った大山捨松の描写
NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』)に登場する大山巌陸軍大臣の妻・大山捨松(多部未華子)は、一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)の人生を大きく動かす存在として描かれている。りんと直美は大関和と鈴木雅をモチーフとする架空の人物だが、ドラマは捨松を実名のまま、その物語の中に置いた。
実在の人物が物語の素材にされること自体は珍しくない。だが捨松は、明治のベストセラー小説『不如帰』に素材として使われた末、「意地悪な継母」という像を負わされ、死の直前までそれに苦しめられた。
8月24日からの第22週「明るい未来」では、日清戦争が開戦。広島の病院で軍人の看護に苦戦する多江(生田絵梨花)の手紙がりんたちに届き、日本における正式な看護婦(トレインド・ナース)の育成をバックアップしてきた捨松も動き出す。史実の捨松も日本赤十字社篤志看護婦人会の理事を務め、戦時の救護に関わる立場にいた。この戦争をはさむ時期、大山家では、大山巌と先妻の長女、捨松にとっては継娘の信子が、婚家から離縁され帰ってきている。その小説の材料になった出来事である。
徳冨蘆花が捨松をモデルに書いた
明治31年(1898年)の夏、逗子。作家の徳冨蘆花と妻・愛子が借りていた宿の隣室に、福家安子という未亡人が滞在した。亡夫が大山巌の副官を務めていた縁で、話は大山家の内情に及ぶ。巌の長女・信子が子爵三島家から肺結核を理由に離縁されたこと、夫の三島弥太郎が悲しんだこと、怒った巌が娘を引き取って邸内に静養室を建てたこと、信子が死んだとき三島家から届いた葬儀の生花を突き返したこと。蘆花夫妻は暗くなるまで聞いた。
やがて安子が、信子の臨終の言葉を伝えた。「もうもう二度と女になんか生れはしない」。その言葉を聞いた蘆花は、このとき「小説だ」と心の中で叫んだという(徳冨愛子述・神崎清記「蘆花と共に」明治文學全集42『徳冨蘆花集』筑摩書房)。当時の蘆花は、兄・蘇峰が創設した民友社で芽の出ない一社員だった。同年11月29日、国民新聞で『不如帰』の連載が始まる。
ところが、実際の経緯は、小説とはかなり違う。信子と弥太郎が結婚したのは明治26年(1893年)4月、離縁はその2年ほどのちである。神崎清の調査によれば、縁談の際、大山家の主治医だった陸軍軍医・橋本綱常は病気などないと断言していた。ところが結婚後まもなく咳が続き、三島家側の高木兼寛が進行した肺結核と診断する。陸軍と海軍で見立てが食い違い、怒った巌が信子を引き取って三島家に返さなかった。もつれの根はそこにある(『座談会明治文学史』岩波書店)。


