義務教育は誰のための仕組みなのか。思想家・神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は「義務教育は子どものためにあるが、その“義務”を課されているのは子どもではなく親だ。この背景を知ると『学校が存在する理由』が見えてくる」という――。

※本稿は、内田樹『街場の教育論』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

時計のある白い校舎
写真=iStock.com/Toru Kimura
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義務教育は誰のためにあるのか

「義務教育」という言葉があります。ほとんどの学生さんはこれを「子どもは学校に通う義務がある」というふうに考えていますが、もちろんそれは誤解です。義務を負っているのは親の方です。

日本国憲法26条1項にはこうあります。

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」

同2項にはこうあります。

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」

ご覧の通り、子どもには「教育を受ける権利」があるだけで、義務はありません。子どもを学校に通わせる義務を負っているのは親の方なのです。

どうして、親に子どもに教育を受けさせる義務が発生したのか。これは教育史をひもとくとわかりますけれど、子どもたちを親による収奪から守るためです。

私たちはもう「児童労働」というものを実感としては知りませんけれど、産業革命以来、子どもたちは労働力として消耗品に近い扱いを受けていたのです。

児童労働の悲惨な実態

マルクスに『資本論』を書かせた動機の1つは同時代のイギリスの児童労働の実態でした。『資本論』の第1巻3篇「絶対的余剰価値の生産」を論じた中で、マルクスは労働の搾取さくしゅのきわだった例として、児童労働を報じた当時の新聞記事を引用しています。

夜中の2時、3時、4時に、9歳から10歳の子供たちが汚いベッドのなかからたたき起こされ、ただ露命をつなぐためだけに夜の10時、11時、12時までむりやり働かされる。彼らの手足はやせ細り、体軀は縮み、顔の表情は鈍磨し、その人格はまったく石のような無感覚のなかで硬直し、見るも無残な様相を呈している。

(「デイリー・テレグラフ」、1860年1月17日、『資本論』第1巻上、今村仁司他訳、筑摩書房、2005年、357頁)


マッチ製造業は、その不衛生と不快さのためにきわめて評判が悪く、飢餓に貧した寡婦等、労働者階級でももっとも零落した層しかわが子を送り込まないようなところだった。送られてくるのは「ぼろをまとい飢え死にしかけた、まったく放擲ほうてきされ教育を受けていない子供たち」である。(……)270人が18歳未満、40人が10歳未満、そのうちの10人はわずか8歳、5人はわずか6歳だった。労働日は12時間から14、15時間にわたり、夜勤、不規則な食事、しかもほとんどがリン毒に汚染された作業場内での食事である。

(「児童労働調査委員会、1863年」、同書、361頁)