「教育に必要な存在」は誰か
文科省も要らない、教育委員会も要らない、親も要らない。むろん、地域社会も教育の必要条件ではありません。側面からの支援者としてなら有用な場合もあるでしょうが、産業革命期のイギリスの産業資本家のようなものであれば、いない方がはるかにましです。
メディアも要らない。こう言うとメディアで教育専門の記事を書いている人たちはご不満でしょうが、学校がなくなって、教育評論家たちだけが残っている世界というのがありえない以上、メディアも要らない。
こうやって消去法で消してゆくと、最後に残るのは「教師と子ども」だけになります。これだけは消去することができません。教師のいない教育も、子どものいない教育も、どちらもありえない。それ以外のものはすべてなくても教育は成立します。
もし教師と子どもが無人島に漂着したら
無人島に漂着した教師と子どもたちがいたとします。最初のうちはいっしょに椰子の葉で屋根を葺いたり、魚を釣ったりしているでしょうが、ある程度、衣食のめどがついたら、当然ながら教師は「じゃあ、そろそろ勉強を始めようか」と言い出すはずです。これは絶対言います。言わないはずがない。歴史や文学や神話について、数学や天文学や美術や音楽について、教師は知る限りのことを子どもに伝えようとする。そして、子どもたちもまた食い入るようにその話に耳を傾ける。
どうしてでしょう。受験勉強に役立てるためでしょうか? 学歴をつけていい就職口をみつけるためでしょうか? 文化資本を身につけて格差社会の上位にポスティングされるためでしょうか?
どれも違います。だって、ここは無人島なんですから。
でも、教育をしたいという情熱と、教育を受けたいという欲望は、無人島であっても、おそらくは変わらない。むしろ、無人島だからこそ学ぶことを切望する子どももきっと出てくると思います。
それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。
勉強しているときには、子どもたちも一瞬、無人島という有限の空間に閉じ込められていることを忘れて、広い世界に繋がっているような開放感を覚える。四方を壁で取り囲まれた密室の中に、どこからか新鮮な風が吹き込んできたような爽快感を覚える。そういうことがきっとあるはずです。
「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです。
【参考文献】
※カール・マルクス『資本論 第一巻 上』(筑摩書房)
※エリザベート・バダンテール『母性という神話』(筑摩書房)
※ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波書店)

