音楽を通して「時間意識」を養う重要性
音楽を聴くとき、それまで聴いた先行する楽章のすべての楽音が「いまでも聞こえる」人、これから続くすべての楽章のすべての楽音が「もう聞こえる」人は、今ここで聞こえている単独の音(というのは原理的にはありえないのですが、仮説として)を深く味わうことができます。
はじめて聴く曲であっても、それまでの楽音がずっと記憶されて、聞こえている人は、これから続くはずの楽想がある程度予測できる。その期待にぴたりと添った音が聞こえれば快感が訪れるし、期待から少しずれれば、そこにグルーヴ感が生じる。
音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。そうですね。もし生まれてから耳にしたすべての楽音を記憶している人がいたとしたら、その人は耳にするあらゆる音の中に、彼がこれまで聴いたすべての音楽の変奏と和音と対旋律と倍音を聴き取ることができるでしょう。
そして、これから作られる音楽(まだ誰も演奏したことのない音楽)を先取りして想像できる人がいたとしたら(これも仮説的存在ですが)、その人が音楽を聴くときの快楽というのは私たちの想像を絶しているはずです。
音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。だから、音楽は時間意識の涵養のためにきわめて重要な科目とされるのだと私は思います。
敵ではなく自分と向き合う弓術・馬術
「射」は弓。「御」は馬を御すること。すなわち武術です。本邦でも剣や槍を使っても、武道のことを「刀槍の道」とは言いません。やはり「弓馬の道」と言います。私たちが武人の姿としてまず想像するのは、馬にまたがって弓を引いている姿です。
弓術と馬術は武術の中で実は特殊なものです。それはどちらも「敵がいない」からです。弓において術の成否を決定するのは100パーセント自分自身の心身です。的は向こうからは襲ってきません。自分の身体をどこまで細かく分節できるか。筋肉や骨格や腱や神経や細胞にいたるまでを意識できるか。それが課題となります。身体運用の精度を上げるためには、どういうふうに心と体を使うのがいいのか。それを工夫するのが「射」です。
「御」も相手は馬ですから、ここにも敵はいません。馬術で要求されるのは、人間ならざるものとコミュニケーションする力です。馬でも操作を誤れば大けがをするし、具合が悪ければ死んでしまう。でも、コミュニケーションを成立させ人馬一体となれば、ケンタウルスのような「キマイラ」になることができる。人間と非人間が一つになって「共―身体」を形成することができる。それは人間が単体で発揮できる運動能力の何倍、何十倍もの能力を発揮する。

