日本で安楽死法が成立しない最大の壁
安楽死後の臓器提供が合法化されている世界5カ国の一つ、カナダでは、臓器の新鮮さを維持するために、安楽死患者が死亡宣告される前に摘出することを可能にする議論がされている。人生の最後に「誰かの役に立つ」という美談に収めてしまう危険があり、私たち日本人にとっても他人事ではない。
高齢化大国のトップランナーで、在宅緩和ケアをしている萬田緑平医師日く「世界一死にたくないくせに、長生きしたくない国民」が住む、日本はどうだろう?
そもそも日本では、安楽死が認められていない。たとえ患者が医師に要求しても実行したら最後、医師は刑法202条の「自殺関与及び同意殺人罪」で6カ月以上7年以下の拘禁刑だ。
日本において安楽死法が成立し得ない最大の壁とは何か。そこにはこの国特有の「同調圧力」と「忖度文化」という、顔のない支配者がいる。
ハクスリーが描いたディストピアには、あからさまな強制はない。
市民は幼少期から「そうするのが当たり前」という条件付けによって、自らの意志でシステムに従順でいることを選ばされる。もしも日本で安楽死が制度化されたならそれは個人の「自由意志」ではなく、周りに「迷惑」をかけたくないがゆえに「忖度する」という無言の圧力だろう。
筆者の夫が訴えてきた「患者の権利」
韓国でも、「良い死に方とは何か」という世論調査の1位は「家族や知人に負担をかけないこと」だった。日本だけの問題ではない。アジア共通の「迷惑をかけてはならない」という倫理観が、「死を選ばせる空気」と結びついた時、「選べる自由」は「選ばされる義務」に変わる。
まさに、ハクスリーが予言した「飼い慣らされた自由」の現代版だ。
実は日本には、「患者の権利」を明文化した法律が存在しない。
参議院議員を18年務めた筆者の夫(川田龍平氏)は、難病を抱える当事者として、ずっとこの問題を訴えてきた。
コロナ禍でも、情報開示が不十分な中で実施されたワクチン接種について、各国で問題視された「インフォームドコンセント」の欠如を、国会の場で厚労省に繰り返し訴えたが、政府はのらりくらりとどこ吹く風だったという。あれは氷山の一角だ、やはり「患者の権利」を何としても法制化しなければならない、と今も怒りを口にしている。
「インフォームドコンセント」という言葉自体、日本では本来の意味からずれており、患者が治療方針を決める権利ではなく、医者や病院が患者の意思を「尊重してあげる」という上から目線になっているのだ、と。
医療現場では、患者が医師や医療スタッフに気を遣い、権利どころか本人の意思すら伝えにくいという声が多い。「自分の身体を預けてお世話になる先生」に、物申すことは、相手の心証を悪くするようで、不安になるのだ。
この一連の構造が、自分の死に方を自分で決められない日本人の無力感の根底にある。
安楽死の議論以前に、生きている間でさえ、自分の身体と治療について自分の意志を通すことが、この国ではひどく難しいのだ。



