尹前大統領が持ち出した「中国スパイ」

警察が対策に乗り出してもデモ隊はひるまなかった。

矛先はソウル南部の大林(テリム)地区に向いた。韓国系の中国国籍者である朝鮮族が多く暮らすチャイナタウンだ。参加者の一人はMBCテレビの取材で、「この国は中国からの不法移民のせいで、めちゃくちゃにされている」と主張した。

大林で暮らす中国系の住民たちは、投げつけられる言葉に深く傷ついている。

ある住民がMBCテレビで、「韓国に長く住んで、半分韓国人のような気持ちになっています。こんなデモは見たくない。あんな言葉を聞くと、とても悲しくなります」と訴える。

コリア・タイムズが昨年9月に報じたデータによると、中国大使館があるソウル明洞周辺の反中デモは2022年に20件、2023年に15件、2024年に13件と、年々減りつつあった。

ところが2025年、空気は一変する。10月に届け出のあった計画分を含め65件と、前年の5倍に達した。

転機は2024年12月の戒厳令だった。尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領が突如、野党により国会が停滞しているとして戒厳令を宣言。軍が行政や司法の機能を代行する措置を講じたが、国会が即座に退け、わずか数時間で撤回に追い込まれた。尹氏はその後弾劾される。

尹錫悦韓国前大統領
尹錫悦韓国前大統領(写真=Office of the President of South Korea/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

問題は、尹氏が戒厳令を正当化する際に「中国のスパイ」の脅威を持ち出したことだ。ニューヨーク・タイムズによると尹氏は、中国の工作員が韓国に浸透しているとの疑惑を持ち出した。大統領自身が中国の脅威を公言したことで、「中国が韓国の選挙を裏で操作している」という陰謀論に公的なお墨付きが与えられた形になり、極右メディアやYouTuberたちがこれを一斉に取り上げた。

誇張された情報が憎悪感を煽る結果に…

ソウル市立大学中国語・中国文化学科のハ・ナムソク准教授は昨年5月、サウスチャイナ・モーニングポストでこの変化をこう分析している。

「以前の反中感情は、間違ってはいたが、THAAD(在韓米軍のミサイル防衛システム)配備への中国の報復や文化盗用論争など、現実の出来事に根差していた。戒厳令危機のあと、憎悪は陰謀論やフェイクニュースを根源とするものへと変わった」

韓国の中央日報が引用した2022年の調査では、中国を否定的に見る韓国人は81%に達した。2015年のピュー・リサーチセンターによる別の調査では37%だったが、そこから大きく上昇している。

戒厳令の騒動が沈静化した後は、中国人団体客へのビザ免除措置が批判の的になった。

コリア・ヘラルドによると、昨年8月時点で訪韓観光客の3人に1人は中国人だ。ビザ免除は観光振興のための経済政策でもある。だが排外的な言説が広がり、政策本来の趣旨はかすんだ。

コリア・タイムズによると、「3000万人の中国人が押し寄せる」など、誇張された情報が極右団体やメディアによって拡散され、犯罪や感染症など人々の不安に訴える形で憎悪感情を煽った。