秀吉の“ウソの書状”、光秀の使者の“二枚舌”
こうした中、秀吉と光秀は、互いに摂津衆を陣営に引き込むべく情報戦を展開していた。
まず秀吉。6月5日付で清秀に宛てた書状では、信長・信忠が近江国膳所に逃れたと報告している。もちろん嘘である。書状の意図を秀吉自身が説明しているわけではないが、動揺する清秀を光秀側に走らせないための工作と見るのが自然だろう。
一方の光秀も、右近の勧誘に動いていた。ただし、こちらのやり方は完全に裏目に出る。
光秀が頼ったのは、宣教師オルガンティノだった。右近はポルトガル語を解するため、書状は日本語版とポルトガル語版の二通が用意された。ところが、このオルガンティノ、当初から光秀を支持していなかった。日本語版には光秀の口上どおりの勧誘文言が並んでいたが、光秀の読めないポルトガル語版には、まったく逆のこと「光秀に与してはならない」が書き込まれていたという(中西氏前掲書)。使者として立てた相手に、自分の書状の中身を丸ごとひっくり返されていたわけだ。光秀は最後まで、それに気づかなかった。
もっとも、この工作は一時的には効いてもいた。右近が堺から高槻城へ戻るまでの間、留守を預かっていた右近の妻が光秀方に色よい返事をしていたとされる。これを真に受けた光秀は、右近が味方になると踏んで、摂津への進軍を控えた。しかし当の右近本人が高槻城に帰り着いて下した決断は、秀吉与力だった。
秀吉のウソが、「迷う間」を与えた
さらに秀吉は、この右近の決断を清秀に対してにおわせる。「右近はもうこちらについたぞ」と揺さぶりをかけたのである。
つまり光秀は、大坂城の信孝という目に見える大敵への警戒に気を取られている間に、右近には裏切られたオルガンティノの一件で足をすくわれ、清秀には右近の寝返りを引き合いに揺さぶられ、気づけば摂津衆を1人も引き込めていなかった。結果、光秀の戦略の重心は河内・大坂方面に置かれ、摂津の調略は中途半端なまま置き去りにされることになる。
ここで改めて振り返りたいのが、あの「ウソの手紙」である。
冷静に考えれば、清秀もいい大人だ。信長・信忠が近江の膳所に逃れたという知らせを、そのまま鵜呑みにしたとは考えにくい。本能寺での騒乱の規模を考えれば、無事に逃げおおせたというのは、都合が良すぎる話である。
それでも、この嘘には効果があった。清秀からすれば、真偽を確かめている暇などない。頼みの綱の右近は今どちら側につくか分からず、光秀は大坂の信孝と睨み合っている……そんな五里霧中の状況の中、「信長生存」という一報は、動くべき理由と、動かずにいる言い訳の両方を清秀に与えたのである。真実かどうかより、「まだ迷っていい」という猶予を作ったことこそが、この嘘の効能だった。
情報の真偽そのものではなく、情報が相手の背中を押す「間」をどう作るか。秀吉が本当に長けていたのは、ここだった。

