NHK「豊臣兄弟!」は、山崎の戦いで秀吉勢が光秀勢を討ち破るシーンを描いた。最新研究では、合戦当日の秀吉が遅参したことが話題になっているが、実態はどうだったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、論文などを基に史実をひも解く――。
重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵
重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

合戦当日に「遅参」した秀吉

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第29回(7月26日)では、ついに山崎の戦いが描かれた。光秀(要潤)を打ち破り、信長(小栗旬)の仇を取った秀吉(池松壮亮)は、ついに天下人となる決意を小一郎(仲野太賀)に語る。そして物語は、かの有名な清須会議へと続いていく……。

さて、重要なターニングポイントとなった山崎の戦い、秀吉が実は合戦当日に遅参していたという馬部隆弘氏の新説が話題になっているのは、プレジデントオンラインのほかの記事でも触れているとおりだ。この新説の全貌を記した馬部氏の論文「山崎の合戦と池田恒興」(『中京大学文学部紀要』第60巻第2号)を読み込むと、実は山崎の合戦の主役は、秀吉ではなく「摂津衆」と呼ばれる3人の武将だったことが見えてくる。

馬部氏が検討した史料のひとつが、ルイス・フロイスの書簡だ。論文では、この書簡は、これまでキリシタンである高山右近の活躍を明らかに誇張していることもあって、史実をそのまま記しているとは考えられてこなかったとした上で、改めて検討を行っている。

馬部氏は、フロイスは信孝や秀吉に対して忖度する理由が一切ない。むしろ「信孝と秀吉は疲労のため間に合わなかった」という、当時の“公式見解”(秀吉が光秀を討った)とは真逆の内容を、悪びれもせず書いている。忖度のない記録だからこそ、逆に信じられるとして検討を行っている。

実態は「摂津衆の3人」と「光秀」の戦い

この検討の結果浮かび上がった山崎の戦いの実像は、次のようなものだ。

摂津の大身である高山右近・中川清秀・池田恒興は、秀吉本隊の到着を待たなかった。「秀吉が近くまで来ているらしい」その気配だけを頼りに、3人だけで山崎へ進出したのである。配置は右近が中央の西国街道筋、清秀が山手(左翼)、恒興が淀川沿い(右翼)。三方から光秀を包む陣形を、自分たちだけで組んでしまった。

一方の秀吉本隊はどうしていたか。光秀は勝龍寺城に籠城するはず……そう読んで、のんびり移動している最中だった。ところが光秀はその予想を裏切り、城から打って出る。この瞬間、秀吉本隊はまだ三里(約12キロ)以上後方にいた。

呼び戻しても間に合わない。

それでも1000人にも満たない右近勢は、単独で明智勢に突っかかっていった。緒戦を制すると、両脇に控えていた清秀・恒興が追いつき、挟撃に転じる。明智勢は総崩れとなり、その日の夜には決着がついていた。

つまり、山崎の戦いはほとんど摂津衆の3人と光秀の戦いだったというわけだ。これを踏まえて、馬部氏は「高山重友(筆者註:右近のこと)の戦功から誇張を差し引いて、中川清秀と池田恒興の戦功も相応のものであったとみるのが無難であろう。三者のうち恒興が大将とされていたので、山崎の合戦最大の功労者は彼であったに違いない」と結論づけている。

この3人を味方につけることができたのが、秀吉が勝利した理由である。そして、それは情報戦の勝利であった。