身内をだまし討ちにした織田信孝
そもそも本能寺の変直後の状況をみてみよう。変の直後、最大の兵力を擁していたのは、四国渡海のために軍勢をまとめていた織田信孝である。信孝はすぐさま光秀討伐に動こうとしたが、本能寺の変の報が伝わるや、兵は次々と逃亡し始めた。不利を悟った信孝は大坂城へと向かう。
ところがこの大坂城、守っていたのが光秀の娘婿であり、内通を疑われていた津田信澄だった。中西裕樹氏の『戦国摂津の下克上─高山右近と中川清秀』(戎光祥出版、2019年)によれば、入城を拒む信澄に対し、信孝は丹羽長秀と共謀。合戦をしているふりをして城内に入り込み、信澄を殺害、あるいは自害に追い込んだという。
しかも、中西氏は「本能寺の変後に離散した信孝の兵とは、河内を拠点とした三好氏の旧臣等ではないだろうか」とも指摘している。だとすれば信孝は、自分の身内をだまし討ちにしてまで城を奪い、寄せ集めだった軍勢をゼロから立て直さねばならなかったことになる。
信孝は、信長の息子なのだから光秀に敵対するわかりやすい勢力である。では、摂津の大名たちがどうかといえば……いまいちわからない。恒興だけは、信長の乳兄弟なのだから、光秀の味方になる可能性は低い。
敵か味方か読めない、右近と清秀
問題は、信長の統治下では恒興の下に組み込まれていた右近と清秀である。
右近は、摂津の国人領主。幕府の御供衆だった和田惟政の配下から始まり、惟政の死後は荒木村重に属し、高槻城主となった。そして1578年、村重が信長に反旗を翻したとき、人質に取られた妹や息子の命と引き換えに、村重を裏切って信長側につくかどうかを悩み抜いた末、右近は紙衣一枚で城を出て信長に投降している。信仰の篤いキリシタン大名だが、一方で、情勢によって敵味方を変える男でもある。
清秀は、もとは摂津国人の池田勝正に属していたが、織田信長が上洛してくると鞍替え。村重が反旗を翻した際には、同道するも信長に降伏し(調略されたとされる)許されたという経緯がある。その後、村重討伐に功績があったとして息子の秀政は信長の娘・鶴姫を正室に迎えている。いわば信長の親戚筋ではあるのだが、機を見るに敏な男には間違いない。
しかも、右近と清秀は、フロイスの書簡には「大敵同士だった」とも記されている。原因は、互いに接する領地の境界争いだった。『新修茨木市史』第2巻通史II(茨木市、2016年)は「信長方に属すと同時に、右近と清秀の間に境界争いが起こっているということは、天正6年以前の村重段階には、中川領国と高山領国がまだ確立していなかったことを示唆する」と指摘している。
2人は、村重を裏切って信長についたという同じ経歴を持ちながら、その信長政権下でも隣国同士、いがみ合っていた間柄なのだ。つまり、条件次第で秀吉、光秀のどちらにつくかわからない勢力だったといえるだろう。

