身内をだまし討ちにした織田信孝

そもそも本能寺の変直後の状況をみてみよう。変の直後、最大の兵力を擁していたのは、四国渡海のために軍勢をまとめていた織田信孝である。信孝はすぐさま光秀討伐に動こうとしたが、本能寺の変の報が伝わるや、兵は次々と逃亡し始めた。不利を悟った信孝は大坂城へと向かう。

歌川 国芳・筆『太平記英勇傳:丹部侍従平春高』織田信孝
歌川 国芳・筆『太平記英勇傳:丹部侍従平春高』織田信孝(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

ところがこの大坂城、守っていたのが光秀の娘婿であり、内通を疑われていた津田信澄だった。中西裕樹氏の『戦国摂津の下克上─高山右近と中川清秀』(戎光祥出版、2019年)によれば、入城を拒む信澄に対し、信孝は丹羽長秀と共謀。合戦をしているふりをして城内に入り込み、信澄を殺害、あるいは自害に追い込んだという。

しかも、中西氏は「本能寺の変後に離散した信孝の兵とは、河内を拠点とした三好氏の旧臣等ではないだろうか」とも指摘している。だとすれば信孝は、自分の身内をだまし討ちにしてまで城を奪い、寄せ集めだった軍勢をゼロから立て直さねばならなかったことになる。