「教範」と呼ばれる内部文書を受け渡す
この後、手渡された品物を特定するための捜査が進められ、それが自衛隊の訓練に関する「教範」と呼ばれる内部文書だったことが判明した。
元陸将は最初に手持ちの教範をコワリョフに進呈した後、追加でもっと欲しいと求められ、かつての部下の現職自衛官に調達を依頼して、数回にわたってコワリョフに渡していたのだ。
教範は自衛官なら誰でも購入できるもので、機密性はさほど高くないものの、購入には内部決裁が必要だし、情報公開請求では明かされない実質的秘密も含まれていることが後に判明した。
東京地検と協議した結果、教範を渡す行為は秘密の漏洩に当たるという結論に達し、自衛隊法(守秘義務)違反容疑で立件する方向が固まった。
ホテルのレセプション会場での接触から約1年後、外事一課は元陸将に任意出頭を求めて事情聴取を開始した。
すべてを監視されていたことを知った元陸将は、率直に事実を認めて反省の意を示したという。
警視庁は元陸将を在宅のまま書類送検した。
コワリョフはすでに出国しており、ロシア大使館は例によって出頭要請を拒否した。
巧みに相手の虚栄心をくすぐり情報源に
ロシアの3つの諜報機関のうち、FSBの諜報員の中には泥酔して車の中で寝込んでしまうような素行の悪い男もいたが、GRUとSVRは総じてエリートらしく品行方正で、外見はおよそスパイのいかついイメージとはかけ離れた人たちに見えた。
だが、彼らは人を籠絡するための専門的な訓練を受けており、気づかれぬうちに相手を協力者にしてしまうプロフェッショナルなのだ。
まずは企業や大使館などが主催するパーティーに潜り込んだり、セミナーや展示会などに参加して、外交官としての名刺を交換する。
その過程でターゲット(対象者)を定め、会食の約束を取りつけると、後日食事の場でターゲットに「こんな情報が欲しい」と持ちかける。
ただ、それはネットにも載っているような情報なので、ターゲットも気安く応じることができ、見返りとして3千円のクオカードをもらっても、それほど罪悪感を抱かなくて済む。
しかし、これは入り口にすぎず、諜報員からの要求は会食を重ねるごとにエスカレートしていき、国や企業の機密情報ともなると謝礼の額は10万円程度にはね上がる。
もちろん跡がつかないよう、現金で支払われる。
ここまでくれば、もう後戻りできない。
元陸将の供述から浮かび上がったのは、巧みに相手の虚栄心をくすぐりながら情報源にしてしまおうとする狡猾な姿だった。

