知床の山で100頭を超えるクマを仕留めた「伝説のハンター」が、猟に出たまま戻らなかった。なぜ名人は命を落としたのか。最強のクマ撃ちと呼ばれる赤石正男さんの足跡を追ったノンフィクションから、赤石さんが仰いだ名人の最期と、命を奪った母グマの恐ろしい習性を紹介する――(第1回/全3回)。

※本稿は、藤本靖『羆撃ちに人生を賭けた男』(山と溪谷社)の一部を再編集したものです。

100頭以上のヒグマを仕留めた男

羅臼らうすの高嶋喜作」といえば、根室地方の羆撃ちで知らぬ者はいないほどの名人であった。特にヒグマとの接近戦を得意とし、背丈以上もあるクマザサの中に危険を承知で入っていく。

ライフルにスコープを装着せず照星(銃身の先端に付いた小さな照準器)で照準を合わせる射撃方法で、当時すでに100頭以上のヒグマを仕留めていた。

その高嶋が羆撃ちに出たまま、戻らない――そんな話を赤石が聞いたのは、1985年4月22日夜のことだった。赤石は高嶋よりも30歳以上年下ではあったが、ハンターとしての確かな技量には高嶋も一目置いていた。

猟銃
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ほんの数日前には中標津なかしべつの銃砲店で、羅臼町を流れるポンシュカリ川の沢筋に生息する複数のヒグマについて、こんな会話を交わしたばかりだった。

「高嶋さん、俺、大きいほうを追ってみるから、ほかの羆は任せていいかい」
「おお、そうか。わかったぞ」
「ここには、親子連れもいるんだよなぁ」
「おぉ、知ってるぞ。去年の秋に足跡があったからな」
「親子は、そんな奥までいかないはずだから、後で、俺が見とくわ」
「デカい羆は、必ず下に降りてきた後に、上に上がってるようだから、こっちは俺が見にいってくるわ」

2人で猟に出ることはないが、互いに同じ山に入りヒグマを追う間柄だった。ヒグマの追い方や、撃ち方について赤石が高嶋に教えを乞うことも多々あった。

5年前の失態

「あの高嶋さんのことだからじきに戻るだろう」

そう思いながらも赤石の脳裏には、5年前のある事故のことがよぎった。

その頃、高嶋が経営するミンク養殖施設には、親子連れのヒグマが出没を繰り返していた。

高嶋は息子とともにこれを駆除すべく、親子グマを待ち構え、首尾よく親グマに一発撃ち込んだ。ところが親グマはこれにひるむことなく、高嶋に向かって一直線に向かってきたかと思うと、たちまち高嶋を押し倒し、その腕に噛みついたのである。

慌てて助けに入った高嶋の息子はヒグマに飛びかかると、馬乗りになりながらヒグマを押さえつけ、その間にヒグマの下から這い出した高嶋がヒグマの頭を目がけて銃弾を撃ち込み、九死に一生を得たのである。

名人・高嶋にしては珍しい失態だった。

もしかして、またヒグマにやられたか――赤石の胸に微かな不安が兆した。

翌23日、羅臼町のハンターを中心に30人近い捜索隊が組織され、高嶋が入ったというマルクラの沢の捜索が行われた。

だが標津町のハンターである赤石は、この捜索には加わらず、ポンシュカリ川の沢筋で数日前に高嶋との会話で出た大グマを追っていた。

数年前から赤石は、春グマ猟の時にいつも同じ場所で休息している大きなヒグマの痕跡を見つけていた。トドマツの下に残された寝床の跡や足跡のサイズから、知床では最大級のヒグマと推測された。

だが、このヒグマは、赤石の前に姿を見せることがなかった。

たまたまタイミングが合わないのか、人の気配に敏感なのかわからないが、ほんの数十分程度の差で、いつもかわされてしまっていたのだ。

その巨躯の痕跡がある場所は、毎年変わらない。ヒグマにしてみれば、安心できる場所のひとつなのであろう。