“名人”の命を奪ったもの
斜面を転がり落ちたヒグマは、20メートルほど転がり沢の雪渓の上に落ちて動きを止めた。
体重80キロほどのメスのヒグマである。
それを素手で持ち上げて投げ落とす赤石の膂力は尋常ではない。
ヒグマが絶命していることを確認してから腹ばいにして、銃痕の確認をする。
いま、須藤が撃ったのは散弾銃に鉛でできた弾頭が一発詰められたスラッグと呼ばれる弾だが、高嶋が撃ったのはライフル弾であるから、これを識別するのは簡単だ。
高嶋の弾は胸から入り、横隔膜をかすめて背骨の横から抜けていた。おそらくヒグマよりも下の位置から撃ったのだろう。
ヒグマの特性として自分よりも高い場所にいるものに対しては、攻撃を躊躇する。逆に低い場所にいるものに対しては、一気に攻撃を仕掛けてくることが多い。
高嶋がヒグマを撃った状況を推測すると、こうだ。
おそらく高嶋は最初、沢のカーブを曲がった所でヒグマを発見し、発砲したのだろう。出合い頭に近かったのかもしれない。母グマは、子グマを伴って沢の上流へ逃げた。
高嶋は、それを追っていったが、途中で見失ってしまう。一方で母グマは、追われることを嫌い、上流の二股となった左の斜面を登り、追ってくる高嶋を上で待ち伏せしていたはずだ。
そこへやってきた高嶋は、斜面の上手にいる母グマには気づかない。
そして、母グマは斜面を駆け降り高嶋に向かった――これが、現場の状況から赤石が見通した事故の状況である。
仇はとったぞ…
後にヒグマを解体してわかったことであるが、高嶋の弾は、不運なことに肺や脊髄など致命傷となりうる場所を避けるように貫通したため、ヒグマは絶命せずに移動し、なおかつ反撃することが可能だったのである。
ちなみに高嶋の銃の弾倉には、もう一発撃った形跡があった。突然の反撃にとっさに発砲したものの、ヒグマには当たらなかったのだろう。
それにしても、このヒグマは高嶋を殺した翌日も、30人もの捜索隊が現場周辺を捜索している間、藪の中で息をこらし、じっと身を潜めていたことになる。もし捜索隊が単独もしくは少数であれば、高嶋と同じ運命をたどった可能性もある。
だが、なぜヒグマは現場にとどまり続けたのだろうか。
「コッコ(子グマ)を待っていたんだろう」
おそらく高嶋と争っている間に子グマが離れてしまったのだ。そういうとき、母グマは現場に1週間でも2週間でもとどまり続け、子グマが戻ってくるのを待つ。
「高嶋さん、仇はとったぞ」
1人の羆撃ちが命を落とした谷で、赤石は誰にともなくつぶやいた。


