明菜が歌い続けた「女性の息苦しさ」

ただ、そのたたずんでいる女性(を歌う女性)が、このとき、たかだか20歳で、すでに劇的な成功を、そのか細い手の中に収めようとしている(この年、その翌年と2年連続で日本レコード大賞受賞)中森明菜だからこそ、「アーバン歌謡」が背負えたのだ。

歌われるのは、都市に住む女性の疲労感だ。その後バブル経済に向かっていく日本。男女雇用機会均等法の施行は翌86年。女性が強くなったといわれても、都市の水面下では、疲労感と絶望感で息苦しくあえぐ女性がいっぱいいた、はず。そんな女性の気分をいかんなく表現する時代のシンボル―中森明菜(『中森明菜の音楽1982‒1991』)

時代はまだまだ昭和。男尊女卑の空気がまだまだ残っていた時代の中、都市の中で、男性と張り合いながら、ひとりぼっちで戦う女性像と、そんな女性が抱える疲労感を歌い上げる姿は、松田聖子とはまた違う意味で、女性ファンのシンパシーをかき集めた。

シンパシーを集めた理由として、中森明菜自身が、ひとりぼっちで戦っていること、そして勝ち続けていることを、ファンが重々理解していたことがある。

弱冠18歳で備えていたセルフプロデュース力

まだ20歳そこそこの段階で、音楽面から、ダンスやファッションまで、つまりは「中森明菜」という商品を、孤立無援状態の中でトータルプロデュースし続ける姿。このあたり、「護送船団方式」による安定体制にいた(ように見えた)松田聖子とは対照的である。

ダンスをする女性のシルエット
写真=iStock.com/andipantz
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シングル『北ウイング』(84年)のタイトルと作家陣を決めたのが、当時18歳(!)の中森明菜なら、アルバム『CRUISE』(89年)と同時にリリースされた『中森明菜ファッション・ブック』の「編集長」まで務めたのも、当時24歳の中森明菜なのだ。

とにかく、80年代の中森明菜といえば、一般的には、決まって『少女A』(82年)、『DESIRE‒情熱‒』(86年)、たまに『ミ・アモーレ』(84年)ということになる。

しかし、それだけでなく、自らが自らをプロデュースして作り上げた、『SOLITUDE』以降の「アーバン歌謡」のすごみが、もっと語られていいと思っている。語られないとバランスが悪いと思っている。