日本が世界に誇る「トイレ」はさらに進化を続けている。東京大学非常勤講師の左巻健男さんは「日本人はサイエンスとテクノロジーを駆使し、トイレを世界でも類を見ないほど快適な空間へと進化させてきた」という――。(第1回)

※本稿は、左巻健男『サイエンス日本史』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

温水ウォシュレットシートを備えたトイレ
写真=iStock.com/loveshiba
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かつて人の排泄物にも格差があった

戦国時代以降に各地で城下町が発展し、江戸時代に入ると、武士に加え、町人階層も職業別に住むなどしたので、主に城下町が商業と交通の中心となった。周辺農村は、そのための農産物を供給するが、城下町で集中的に発生するうんちは農村へ肥料として供給されて田畑に返されるというサイクルができていった(図表1)。

【図表1】江戸と農村を結ぶリサイクルの環
出典=『サイエンス日本史』、イラスト作成=ウエイド

とくに数十万の人口を擁する江戸や京・大坂(のち大阪)の町は、最大の下肥生産地だった。

戦国時代にイエズス会の宣教師として各地を伝道して歩いたルイス・フロイスは、その書簡の中で「我々は屎尿を運び去る人に金を払う。日本では、それを買い、その代償に米と金とを払う」と書き記している。日本には下肥を民家などから買い取り、農家に販売するしくみがあったのだ。下肥の品質には等級の違いがあった。

「いつもご馳走を食べ、魚を食べている人のうんちは作物によく効く、これに反して粗食の人のものは効果が少ないものであるから、繁盛している土地の下肥を肥料としている村は、穀物、野菜がよくできる」と考えられたのだ。江戸では、下肥の品質は上中下の3段階に分かれ流通した。

江戸のトイレは金儲けの場所だった

上級品は大名旗本や大店のもの、中級品は一般の武家、町屋、下級品は貧民の多い長屋のものであったという。このように、人の屎尿は農家に売られていたので、人の屎尿で町が汚されにくかった分、清潔だったのである。

江戸では、大人の借家人20人が生活している長屋で、共同の外トイレの屎尿が年に一両から一両二分で売れた。一人前の大工の1カ月の収入が二両程度の時代なので結構大きい。個人の家の場合は、野菜など現物との交換が多かったようだ。

しかし、農民が拝むように買っていた屎尿は、化学肥料の出現であっという間に価値を失った。くみ取り式トイレでくみ取られた屎尿は、トイレの持ち主がお金を貰えるどころかお金を払わなくてはいけなくなったのだ。

明治時代には洋式便器が伝来したが、都市部でも、構造的にはくみ取り便所で、しゃがみ込んで使う和風便器が主だった。

しかし第二次世界大戦後、腰掛けて使う洋式便器が日本各地に広まり、1977(昭和52)年にはついに洋式便器の販売が和式便器の販売数を超えることになった。