山本菅助は信玄の側近とは言い難い

歴史的に実在した山本菅助は、具体的にどのような活動をしていたのだろうか。史料に即して確認しておきたい。「市河家文書」によれば、弘治こうじ三年(1557)に勃発した第三次川中島合戦において、上杉謙信に攻められ、援軍を求めていた市河藤若ふじわか(北信濃の有力領主)のもとに武田信玄が使者を派遣した。この使者こそが菅助であった。

書影
呉座勇一『軍師の日本史』(角川新書)

続いて、「真下家文書」を見てみよう。天文17年4月吉日武田晴信判物は、山本菅助の

信濃国伊那郡での戦功を称賛し、百貫文という大幅な加増を約束している。さらに年未詳4月20日武田晴信自筆書状で、信玄は菅助に重臣の小山田氏の病状を見舞い、甲府に帰還して報告するように指示している。

こうした活動を見る限り、菅助は足軽大将クラスと評価し得る。しかしながら、信玄の側近的存在とまでは言い難い。平山優氏は、武田家では、他国衆は実力があっても足軽大将クラスまでしか昇進できないことが多いと指摘している。

権力の中枢に登用された者は、尾張出身で信玄・勝頼の側近として活躍した秋山万可斎あきやままんかさいなど、ごく少数しかいない。したがって菅助が信玄の「軍師」であったとは考えられない。

『軍鑑』によれば、山本勘助は海津城を築いており、これが史実だとすれば、実在の山本菅助は、海津城代で『軍鑑』の生みの親である春日虎綱(高坂弾正)と交流があったと思われる。

春日虎綱と親交があった菅助という実在の人物を主なモデルとして、『軍鑑』は「山本勘助」なる虚実入り混じったヒーローを創造したと推定しておきたい。

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