「軍配者」と「軍師」のあいだ
ところで『軍鑑』には、勘助を「軍配鍛錬の者」と呼んでいる箇所はある。すなわち、「永禄4年に河中島合戦之時討死せし山本勘介(原文ママ)は、信玄公旗本に足軽大将の中、五人すぐられたる名人と云ひ、是も軍配鍛練の者なり」(巻二・品第七)と記されている。勘助は信玄の足軽大将の中で五指に入る優れた武将であり、同時に「軍配鍛錬の者」だったというのだ。
ここで言う「軍配鍛錬の者」とは、「軍配者」のことだろう。『軍鑑』は、勘助が吉凶の日取りを占う術に精通していたと記しており、勘助を合戦に際して日時や方位方角の吉凶を占う「軍配者」として造形していると考えられる。
ただし『軍鑑』は、勘助を純然たる「軍配者」としては描いていない。『軍鑑』は武田の代表的な「軍配者」として小笠原源與斎という人物を紹介している。
小笠原は、風呂に入り戸を押さえさせ、人に気づかれないよう外に出たり、夜の会合の時、座席の向こうに山があれば、山にいくつも火を立てたりすることができたという。不思議な霊力を持つ神秘的な存在と言えよう。
一方、勘助は小笠原のような「奇特」(超能力)を持っていなかったと『軍鑑』は記している。『軍鑑』は勘助を超人的な呪術者としてではなく、現実的な軍略家として描いているのだ。
作戦の天才として理想化された可能性
先の記事で指摘したように、戦国大名の軍隊は弓衆・鉄砲衆・長柄(長鎗)衆・騎馬衆などの部隊に編成されていた。戦場で臨時に編成しているだけで、日常的な集団訓練を経ているわけではないが、各々の領主の軍勢の寄せ集めである戦国以前の軍隊より組織化されたことは事実である。
そのような進化した軍隊を動かすには呪術的な軍配者だけでは不十分で、合理的な作戦指揮能力を持つ武将が求められるようになったのではないか。
いわゆる「啄木鳥の戦法」は作戦と呼ぶには単純すぎるようにも思えるが、戦国大名の軍隊は近代の軍隊と異なり複雑巧緻な作戦を実行することができないので、「啄木鳥の戦法」程度が現実的な作戦だったのだろう。
武田家には全軍に号令を下す「軍師」は存在しなかったと見られる。けれども、軍隊の大規模化・組織化が進む中で、作戦の立案や部隊の運用に長けた新世代の武将が台頭してきた可能性はある。そうした武将たちをモデルに、作戦の天才として理想化された存在が山本勘助だったのではないだろうか。

