「軍配者」と「軍師」のあいだ

ところで『軍鑑』には、勘助を「軍配鍛錬の者」と呼んでいる箇所はある。すなわち、「永禄4年に河中島合戦之時討死せし山本勘介(原文ママ)は、信玄公旗本に足軽大将の中、五人すぐられたる名人と云ひ、是も軍配鍛練の者なり」(巻二・品第七)と記されている。勘助は信玄の足軽大将の中で五指に入る優れた武将であり、同時に「軍配鍛錬の者」だったというのだ。

ここで言う「軍配鍛錬の者」とは、「軍配者」のことだろう。『軍鑑』は、勘助が吉凶の日取りを占う術に精通していたと記しており、勘助を合戦に際して日時や方位方角の吉凶を占う「軍配者」として造形していると考えられる。

戦国時代の武将・山本勘助の肖像画
戦国時代の武将・山本勘助の肖像画(画像=恵林寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただし『軍鑑』は、勘助を純然たる「軍配者」としては描いていない。『軍鑑』は武田の代表的な「軍配者」として小笠原源與斎おがさわらげんよさいという人物を紹介している。