直家が信長にくだったのは“打算”か

でも、これも仕方がない。この時の秀吉はめちゃくちゃ焦っている。なにせ、半兵衛は死んだ。官兵衛(倉悠貴)は……有岡城に捕らえられたまま……いや、多分。もしかすると信長がいうとおりで、荒木村重(トータス松本)に同心している可能性もなくはない。自分の周りの役立つ頭脳は小一郎だけである。

秀吉の脳内は完全なパニック……だから、挽回しようとばかりに、信長の許可も取らずに講和の話を進めてしまった。

竹中半兵衛の墓
撮影=プレジデントオンライン編集部
竹中半兵衛の墓

だから、秀吉も報告しながらもドヤ顔ではなかったはず。むしろ「三木城の件はすみません、宇喜多のほうはなんとかしましたから……」と、混乱しながら伝えてきたのだろう。なので、信長も怒るというよりは「手取川の戦いの時の無断撤退もそうだったけど、お前、連絡抜けることあるよな、しっかりしろよ」と叱咤したのではなかろうか。

いずれにしても、この時点になっても信長へくだる交渉が続いているあたり、半兵衛の調略は、有効に機能していなかったことがわかる。

そもそも、直家が毛利を裏切り信長につくことを決めたのは、打算以外の何物でもない。直家が毛利を見限ったのは、1579年1月に輝元が予定していた上洛を中止したのが契機とする説もある(光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房、2016年)。このことが、信長と境界を接する領主たちに動揺を与えたのは確かなようだ。

調略されたのは半兵衛のほうではないか

しかし、直家の計算は、それより早く始まっていた。

前述の通り1578年5月に半兵衛は信長に「西大寺八幡山城が味方したいと申し出てきた」と報告している。これは、単なる家臣の裏切りではない。というのも、この城の城主は、宇喜多忠家……直家の異母弟である(上道郡教育会編『上道郡誌』上道郡教育会、1922年)。

つまり、直家の指示なしに動くはずがない。半兵衛は「西大寺八幡山城を調略した」と思い込んだ。しかし、実態は逆であった。直家は弟を使って織田側に接触させ「信長にくだってもいいかと思ってるんですよ〜」といわせていた。

ようは、状況によっては毛利から鞍替えできるようにするための下準備に過ぎない。それなのに「天才軍師」は、無事に直家の要衝の城がくだったと思い込んでしまったのである。

この時直家は何を思っていたか。おそらくなにも思っていない。「してやったり」とすら思っていない。それが直家という男だ。感傷も、罪悪感も、判断を曇らせる要素はすべて排除する。弟を駒に使い、天才軍師を踊らせ、織田への交渉ルートを静かに開く。ただそれだけのことを、息をするようにやっていただけだ。

半兵衛がやっていたのは調略だったが、直家のやっていることは日常だったのである。調略されていたのは半兵衛だったのだ。