海外進出の第1号はタイだった
即席ラーメンの消費そのものも伸び悩んでいる。2022年に国内消費量は過去最高となる59.9億食を記録しているが、2023年には58.4億食に落ち込んでいる。2024年になって59.8億食と盛り返してはいるのだが、大きな伸びではない。国内消費量は横ばい・微増の傾向でしかない。櫻澤社長が言う。
「即席ラーメンの日本での消費量が増えないのは、やはり少子化が影響しているのではないでしょうか。その一方で、海外のマーケットはまだ伸びる余地があります」
会社としての成長を止めないためには、海外への進出は不可欠なのだ。売上の7割から8割を占めているということは、冨士製作所が積極的に海外展開を実践している証拠ともいえる。
同社が海外に製麺プラントを輸出した第1号は、1970年のタイ向けだった。そのためには、かなりの苦労があったのではないだろうか。それを櫻澤社長に訊いてみると、“意外”な答えが戻ってきた。
「私が大学を卒業して入社したのは1986年でしたので、タイに輸出したときの経緯を詳しくは知りません。しかし、こちらから積極的にアプローチした結果というより、日本の商社を通じて話があったんだと聞いています」
なぜ海外メーカーから選ばれたのか
櫻澤社長も詳しい話は分からないようだが、1970年当時の状況を整理すると、冨士製作所が海外展開し、その後シェアを広げていった理由が見えてくる。
日清食品が世界初の即席麺「チキンラーメン」を発売したのは1958年。それから12年。即席麺の原料となる小麦の国内使用量は1970年をピークに頭打ちとなり、日本国内の即席麺市場は成熟期に差しかかる。業界各社は次の成長を、海外に求め始めていた。
例えば、冨士製作所がタイのワンタイフーズ社に機械を輸出したまさに1970年7月、日清食品自身が味の素・三菱商事との合弁で「米国日清」を設立し、本格的な海外展開に踏み出す。冨士製作所のタイ第1号は、日本の即席麺業界全体が海を越えようとする転換点と、同じ月に重なっていた。
では、なぜ東南アジアで即席麺事業を立ち上げようとした現地メーカーが、群馬の冨士製作所を選んだのだろうか。
さまざまな理由が考えられるが、決め手となったと思われるのが冨士製作所の業界内での立ち位置と、技術の高さだ。
当時、即席麺の機械を手がけるメーカーは日本国内だけで数十社存在した。しかしその多くは、うどん・そばの製麺機を延長して即席麺機械にも進出した老舗、あるいは単機(ミキサー、フライヤー、カッターなど個別の機械)を作るだけの中小メーカーだった。即席麺の生産ライン全体を、それも「自動で」一貫してつなぐことができる会社は存在しなかった。
