日本にコンビニは無理と猛反発された
鈴木がイトーヨーカ堂に転職することになったのは、30歳の時だ。最初の縁は、中央大学の同窓生の勧めでヨーカ堂を訪問したことだった。この時はいったん入社を断っているが、その後、テレビ局関係者らと制作プロダクションを立ち上げようとした際、出資を頼みに再びヨーカ堂を訪ねたことが、思わぬ転職のきっかけとなった。
入社後も、鈴木の妥協なき姿勢は変わらなかった。上司であった本部長が、取引業者との不明朗な関係や部下への責任転嫁によって若手社員の反発を買っていた際、鈴木は問題を解決するには彼に辞めてもらうしかないと社長に直談判し、刺し違え覚悟で組織を浄化したエピソードが残っている。
その後、彼が主導した数々の巨大プロジェクトは、常に周囲の「猛反対」から始まっている。1973年にアメリカのサウスランド社と提携してヨークセブン(現セブン‐イレブン・ジャパン)を設立し、翌74年に東京・豊洲に1号店を出した時も、流通の権威たちは日本でコンビニは成功しないと猛反発した。
皆が反対することはチャンス
数年後におにぎりや弁当の販売を提案した時も、当時は家で作るものだという認識が強く、全員が首を横に振った。2001年にアイワイバンク銀行(現・セブン銀行)を設立した時も同様だ。素人が銀行業に参入するなど絶対に失敗するとマスコミや銀行関係者から大合唱が起きた。
普通なら心が折れるか、妥協する場面だが、鈴木は意に介さなかった。「皆が反対するということは、皆が考えていないという意味だから逆にチャンスだ」。鈴木にとって、全員が反対する事案とは、誰も競合がいないブルーオーシャンを意味していた。
銀行設立の際、初代社長として白羽の矢を立てた元日銀理事・元長銀頭取の安斎隆を口説き落とした時も、当時の幹部たちを驚かせた。
鈴木は、安斎の手を固く握りしめ、深々と頭を下げた。心配することは何もない、お客様の立場で考えてさえくれればいい、後のことは全て任せる――ただひたすらにそう懇願したという。プライドも体面もかなぐり捨てたこの泥臭さが、不可能を可能にしてきたのだ。

